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<書評・ラグビー>『John Kirwan’s Rugby World(ジョン・カーワンによるラグビーの世界)』


ジョン・カーワンのラグビーの世界

『John Kirwan’s Rugby World』John Kirwan, Phil Gifford, Paul Lewis, Loosehead Len, Bob Howitt, Ian Borthwick, Bill McLaren, Barry Ross, Greg Campbell, Steve Jones, Peter Bush, Keith Quinn, Heather Kidd, Dean McLachlan 著 1987年 Rugby Press Limited Auckland

 私がNZにいた1987年に、職場近くのウェリントンのウィットコール書店で、ジョン・カーワンがその場でサインして販売しているのを購入したが、「どうせ、日本の芸能人のようなタレント本で、中身がないのだろう」と思って放置していた。しかし、今回ようやくちゃんと読んでみたところ、カーワンが書いているのは最初の方だけで、あとはNZ内外の著名なラグビーライターや写真家が、ワールドカップの模様及び正確な記録を優れた文章で表したものであり、また記念すべき第一回RWCを、当時のNZや各国の代表的なラグビーライター達がどう見ていたかという貴重な記録でもあった。

 当時の私は、ラグビー関係の情報を日本から購読していた「ラグビーマガジン」で得ていたこともあり、ウェリントンのローカル新聞のラグビー欄はあまりきちんとチェックしていなかった。また、TVのコメンテーターの話は、当然私の未熟な英語力では理解できていなかった。そのため、日本のラグビーライター達(つまりは、古き良き時代の日本が鎖国していたラグビーにどっぷりとつかっていた当時の人たちで、ラグビーはイングランドが「法王」であり、かつてのウェールズやフランスのプレーが最高で、南半球はラグビー文化の後進国と見下していた)の解説を鵜呑みにしていた。

 しかし、WCで素晴らしい優勝をしたオールブラックスのラグビーを、「パターンラグビー(つまりは、創意工夫がなく一定のパターンを繰り返すだけのラグビー)」と決めつけたし、いまだに「ポゼッションラグビー(ボールキープを繰り返すだけの単調なラグビー)」というレッテル貼りがあることは、昔から今に至るまで、個人的に全く納得がいかなかった。

 WCの試合もそうだが、NZ国内の州選手権のゲームは、どれも日本国内の大学や社会人ラグビーよりはるかに進化していて、スピード、スキル、ボール展開の全てにわたって高いエンターテイメントを発揮していたのを、毎週現地のTVで見ていた。それは、よく言われる1970年代のウェールズやフランスのラグビーをはるかに凌駕した先進的なプレーであり、それを理解していないことが不思議でならなかった。

 そうした忸怩たる思いが、今回本書を読むことで、理論的な反論ができる事実を得られたことはとても嬉しかった。実際、決勝戦の後、英国のメディアは、優勝したオールブラックスのキャプテン代行デイヴィット・カークに対して、「満足できないゲーム内容ではなかったのか?」と質問したそうだ。彼らは、準決勝のフランス対オーストラリア戦を事実上の決勝に相応しいとして称賛した一方、決勝でオールブラックスがフランスを完膚なきまでに粉砕したことに不満だったのだ。

 しかし、今改めて読むまでもなく、当時のフランスは英国のみならず日本のライター達も高く評価する選手が多くいた。例えば、FWのローラン・ロドリゲス、エリック・シャン、BKのフィリップ・セラ、セルジュ・ブランコ、パトリス・ラジスケらだ。つまり、決勝を戦うのに相応しいメンバーが揃っていたのに対し、オールブラックスは優れたチームプレーと、FWのショーン・フィッツパトリック、ギャリー・ウェットン、マイケル・ジョーンズ、ウェイン・シェルフォード、BKのデイヴィット・カーク、グラント・フォックス、ジョー・スタンレー、ジョン・カーワン、ジョン・ギャラハーらの優れた個人技によって、ラグビー史上に残る最高のラグビーをプレーして、素晴らしい優勝を勝ち取っている。これを、世界最高のチーム、世界最高のラグビーと言わずして、何をか言わんや。

 ところで、キャプテンだったHOアンディ・ダルトンは、直前の怪我のため大会でプレーできなかったことはよく知られている。一方キャプテン代行をしたSHデイヴィット・カークは、前年の1986年にキャプテンをやっており、遠征してきたフランスに競り勝ったものの、オーストラリアには1勝2敗でブレディスローカップを取られたため、その年の秋にあった1勝1敗だったフランス遠征では、FLのジョック・ホブズ(先年、がんで逝去した元NZ協会会長)にキャプテンを譲っていた。

 一方ダルトンは、1986年の問題になったキャバリアーズでの南アフリカ遠征(アパルトヘイト政策により、スポーツ交流が禁じられていた)に帯同したことを理由に制裁を受けた他、この遠征で南アフリカの選手に顎を骨折させられて長期休養していたが、1987年のRWC前に復帰して、栄えあるキャプテンに就任していた。しかし、WC直前のトレーニングでハムストレングスを痛めてしまい、その後復帰に向けて努力をしたが、プールマッチ最終のアルゼンチン戦に間に合わず、結局最後までプレーできない悲劇のキャプテンになってしまった。

 しかし、ダルトンはこうした不幸にもめげずに、カークがやるべきグランド外でのキャプテン業を代行し、一種のサブマネージャーとしてチームを鼓舞し続けた。また、ブリティッシュアイリッシュライオンズと1983年に対戦した経験があることから、準々決勝の相手であるスコットランドが誇る強力なPRイアイン・ミルンへの対策を、トイメンとなるスティーヴン・マクドーウェルに指導し、その成果は、試合後にスコットランドの監督が、「スクラムで勝つつもりだったが、それが出来なかったのが敗因となった。オールブラックスのスクラムはとても強かった」と言わしめることにつながった。

 そうした数々の陰の貢献を何よりも選手たちが実感していることから、あの有名なエリスカップを受け取るときに、カークがダルトンをわざわざ呼んで、一緒に掲げることになった。つまり、ダルトンはプレーしなかったが、影のキャプテンとして大きな貢献をしていたのだ。

 この時既に35歳だったダルトンは、WC後にすべてのラグビーから、コーチングを含めて引退し、家業である牧畜業に専念した。しかし、1987年の秋、オールブラックスが日本へ遠征したときには、可能であれば参加したかったと述べている。理由は、日本が大好きなので、旅行してみたいことに加え、日本のチームでコーチをしてみたかったそうだ。ここにも、素晴らしい日本贔屓のラグビーマンがいてくれたことを今回知ったのは、嬉しい限りだ。

 ところで、準決勝のウェールズ戦では、ウェールズの選手がラフプレーで退場になっているが、この時味方の選手を殴ったウェールズの選手に、オールブラックスのウェイン・シェルフォードが殴り返していた。しかし、公正なレフェリーはシェルフォードに対して、何らの処罰はしなかった。当時、レフェリングでもラグビー後進国であった日本では、こうしたラフプレー(つまり、殴り合い)の場合、なぜか最初に殴った選手はお咎めなしで、これに殴り返した選手だけに反則を取るという不思議なことをやっていた。

 「ラグビーは紳士のスポーツだから、仕返しするのは認められない」というのが、その理由だそうだが、たしかに昔イングランドが日本に来たとき、テストマッチで日本の選手は殴られても耐えていたし、韓国との試合ではあからさまに殴られても皆我慢していた。しかし、日本のような対応では、仕返しがいけないとするのは正しいとしても、では最初に殴るのはいいのかということになってしまう。一般の社会常識では、最初に殴った方が一番悪く、これに対して殴り返した方は、正当防衛ではあるが、やはり限度があるので控えるべきということになると思う。

 だから、最近はようやく改善されたが、殴った方と殴り返した方の両方が処罰されるのが自然だ。そして、最初に殴った方が例えばレッドになるとすれば、殴り返した方がシンビンになるなど軽減されて良い。単純に「仕返しする側がより悪い」という論理はまったくのナンセンスだろう。たしかに、相手が挑発する(反則をさせるために殴ってくる)ことに対して、すぐに反応して自分を失ってしまうことはだめだ。また、ラグビーよりも乱闘に流れてしまってはプレーをしている意味はない。だからといって、(暴力自体を正当化する気はないが)理不尽な暴力行為を止めさせるため、あるいは理不尽に痛めつけられた仲間を助けるため、やむなく殴り返すことは必要悪だと思うし、それもラグビーの一部ではないかと思う。

 これが正しい理解だと思うのだが、なぜか「どんな場合でも殴り返してはならない。殴った側より殴り返した側がより悪い」という昔に蔓延していた考え方は、今は普通に否定されている「運動中に水を飲んではいけない」というのと同類の、全く無意味な理屈だと思う。こうした面でもグローバル化が遅れていた日本ではあったが、外国人選手の積極的起用、トップリーグの創設、サンウルヴズによる国際リーグへの参加、旧IRB(現WR)理事8ヶ国以外の国との交流活性化、外国とのつきあいに長けた有能な事務局長の活躍を経て、長くまた多くの寄り道(エリサルド監督など)もあったが、ようやく2019年RWCベスト8入りという成果になったのは、世界に誇っていいと思う。

 既に記載したが、NZ以外の各国の状況もリポートされているのが面白い。特にフランスは、当時「小さな将軍」とあだ名をされた強権的な監督ジャック・フール―(現役時代はSH、日本にエリサルド監督を紹介した元凶)が、当時絶好調のCTBエリック・ボンネヴァルが怪我でスコッドを脱落したことにより、誰もがフランスのトップ選手とみていたディディエール・コドルニューを交代要員にすると予想したのに対し、記者会見で「コドルニューはくそったれだ!」、「これを記事にしてくれ!」と言って、敢えて起用しなかったことを知った。そもそもフランスというチームは、指導陣も選手も個人主義で「ワンチーム」という意識が歴史的にない、かなり勝手気ままで指導者の出る幕が少ないチームだが、一方でこうした強権を行う監督がいる。元SHのファビアン・ガルティエもそういう強権的な選手であり、また現監督でもあるが、こういうパワハラ指導者がいないと、フランスは強くならないようだ。

 なお、このフランスのフール―という人は、日本ラグビー史上最低最悪の監督だった、ジャンピエール・エリサルドを紹介した前科がある。正確には、日本協会はフランスラグビーが日本に合っているという思い込みがあり、初の外国人監督としてこのフール―を招聘したかった。しかし、そもそもスノッブで強権的なフール―が弱小である日本の監督を引き受けるわけがない。さらに、日本を馬鹿にしている人が自分に代わって有能なコーチを紹介するわけもない。その結果、紹介されたエリサルドは、長期間にわたって日本で指導しない怠け者の指導者となり、ビデオで選手選考した結果のテストマッチは、当然悪い結果が連続したため、腰の重い日本協会も最後には「契約違反」という理由でエリサルドを解雇した経緯がある。

 この時のフール―の反応を知りたかったが、あいにくと当時は今と違って情報が入手しづらかったこともあり、闇の中になっている。おそらく謝罪や別の良いコーチを紹介するということは、フランス人特有の中華思想・植民地思想からないと考えるのが自然ではないか。また、日本協会もそこまで要求することはしなかったと思う。そして、この窮地を救ったのは、NECでプレーしたことから日本贔屓になっていたジョン・カーワンだった。カーワンは、(一部選手とのコミュニケーションが良くなかったこともあり)RWCでは2回の引き分けだけで勝利を得られなかったために、後任となったエディ・ジョーンズのRWCプールマッチ3勝の成果と比較して、敢えて過小評価する評論家が日本に多数いるが、私は日本ラグビーの窮地を救ってくれたこのNZの英雄に、感謝こそすれ、悪くいう必要は全くないと思う。

 ここで日本の評論家が不思議なことは、ジョーンズを高く評価するためにカーワンを過小評価した一方、RWCベスト8入りと言う輝かしい成果を残したジェイミー・ジョセフに対して、ジョセフだけの成果ではなくジョーンズがあってこその成果だ、ジョーンズがいなければジョセフは結果を残せなかったということを書いた評論家が多数いたことだ。これはまさにダブルスタンダートそのもので、同じ論法ならカーワンも評価すべきであり、反対の論法にするのなら、ジョセフ一人を評価すべきだろう。ここに、日本の多くのラグビー評論家のゆがんだ構造が、大学ラグビー偏重以外にも確認できると思っている。

 ところで、当時アパルトヘイトのためにスポーツ交流を禁止されていた南アフリカへ、ほぼオールブラックスのメンバーによるキャバリアーズが1985年に遠征したことや、これに先立つ1981年には、NZ遠征したスプリングボクスに対して、学校教師を含む多くのNZ人が、アパルトヘイト反対を叫んでテストマッチを妨害した歴史がある。こうした経緯を踏まえて、1986年までのNZでは、父母や学校教師が学校スポーツとしてのラグビーを忌避していた他、一般の女性たちも、ラグビーのアフターマッチファンクションに妻や家族などの女性が立ち入り禁止されていたこともあって、ラグビーは野蛮で危険なスポーツであるとみなして、かなり人気が落ちていた(一方、NZがWCに出場したこともあり、サッカー人気が沸騰していた)。

 こうした状況で、オークランド大学に通う知的・ハンサム・スマートなSHデイヴィット・カークがオールブラックスになって以降、ラグビーに対する女性からの人気が高まり、一方、アンディ・ダルトンの妻を中心としたNZ協会への献身的な働きかけによって、アフターマッチファンクションなどに女性が参加できるようになっていた。そうした中でRWCが開催され、オールブラックスが優勝したことは、NZにおけるラグビー人気復活に大きく寄与したということである。

 RWCで名を挙げたコーチの一人であるジョン・ハートは、オークランドのコーチとして成功した一方、1995年RWC後にようやくオールブラックス監督になったものの、199年RWC準決勝のフランス戦で、試合前に圧勝するような相手を馬鹿にするコメントをして、結果的に不本意な負けを喫したことが知られているが、それ以前の1987年RWC当時は、オールブラックスを優勝させた一因として、本書に長いインタビューが掲載されている。

 それによれば、日本ではハートは生粋のビジネスマンであり、ラグビーをプレーした経歴はない(トップレベルという限定付きかも知れないが)と書かれていたが、実際は1967~76年にオークランド代表として26試合をプレーしている。また、コーチとしては、オークランドのワイテマタ・クラブで1973年から選手兼任コーチになっている。つまり、ビジネスマン云々以前に、立派なラグビー選手でありコーチであった。

 ハートが導入したのは、コーチとしては従前から言われている3P(Position地域獲得 Possessionボール保持 Paceスピード)に加えて、SAPS(Simplicityシンプルなプレー Accuracy正確なプレー Pressure相手にプレッシャーを与える Supportサポートプレー)を導入した。これらは現代ラグビーでは当然のものとして、今やどのチームでも行っているが、これを1987年当時のオールブラックスが行っていたことは、明らかに他のチームに優るアドバンテージであったことがわかる。また、初めて専任のマネージャーを置いて、チーム全体のコントロールをグランド外で適切に行うことを徹底させた。これが日本では「ビジネスマン」というイメージにつながったようだが、ハントのコーチとしての成果は、これだけではなく、前述のSAPSであったと思う。今は、インターネットの普及によって、世界中のラグビー情報が的確に伝わるようになったが、1987年当時の日本ラグビー界にはそうした情報が十分に伝わっておらず、一方で1970年代の部分的な代表の成功と国内(大学)ラグビーに固執したガラパゴス状態に陥ったことで、その後の長い停滞期間に陥ったと思われる。

 1987年といえば、2022年の今からみれば35年前の大昔に思えるが、世界のラグビーが旧態依然としたアマチュアリズムに執着する体制(アンシャンレジーム)から、WCという世界基準にコペルニクス的変動を遂げ、さらに1995年に選手やチームのプロ化へと進化していった、その最初の契機が1987年RWCであったことから、1987年RWC自体とそこで優勝したオールブラックスの大きな価値は、ラグビーの歴史にとって決して薄れることはないと思う。それは、RWCの優勝カップに命名されているウェッブ・エリスに匹敵すると言っても過言ではないと思う。


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