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<閑話休題>創作のポイントを理解できない人がいる・・・

 アルフレッド・ヒッチコックの映画『北北西に進路を取れ!』の終わり近くで、政府関係者(「教授」レオ・G・キャロル)が主人公のケーリー・グラントに、ラシュモア山での猿芝居(つまり、人質のエバーマリー・セイントを救出するためのグラントの演技)について空港ターミナルの外で説明するシーンがある。観客は、このシーンになった瞬間、飛行機のエンジン音で政府関係者のセリフが全く聞こえなくなってしまうことに、いささか「?」という印象を受けるに違いない。中には、映画館やTVの音声が故障したのではないかと勘違いする人もいるだろう。しかし、そうした考えをする人がもし映画の製作責任者であった場合は、名監督であるヒッチコックに対して「セリフが聞こえないのはおかしいから、聞こえるようにすべきだ」と要求するかも知れない。

 しかし、ヒッチコックならずともそうした愚問に対しては、「いやいや、わざと聞こえなくしているのですよ。あそこでセリフが聞こえていたら、ラストシーンの大どんでん返しが台無しになってしまいますから」と、全く嫌になるくらいの下劣な説明をすることになってしまうのだ。また、このセリフが聞こえない効果によって、ラストシーンへの観客の興味はより増幅されるので、大どんでん返しの面白さもこれに比例して倍増することになる。これは、実によくできたプロット(伏線)だろう。さすがヒッチコックだ。

 しかし、これは映画作りの常識から見れば、観客にセリフを聞こえなくするという非常識なやり方になるため、やはり常識にこだわる人からは「セリフが聞こえないのは、この映画の欠点だ」と繰り返し主張されることになってしまう。これは誠に映画文法や物語作りのキモを知らない素人考えでしかないのだが、それが曰く言い難しで、相手に理解してもらえないもどかしさがある。

 私は、別のケース(文章)で似たような経験をしたことがある。私が故意にポイントを外している文章を見て、「ここが君の文章の欠点だから、修正しなさい」と指摘されたのだ。私は、「故意にやっています」と説明したのだが、相手からは「君はこんな当たり前のこともわからないのかね」と強くたしなめられてしまうだけだった。私は、当たり前のことを故意に外すのが新たな創作につながると考えていたので、これを理解できないあるいは理解しようともしないこの人に対して、これ以上真摯に説明しても無駄だと諦めて、その人が主張する常識的な文章に修正した。自分では正直言って相当に不本意だが、そうしなければ通らないのだから仕方がない。もっとも、そうして作られた文章は、無味乾燥な面白くもなんともないまるで安っぽいチラシ紙のような文章になっていた。こうしたことは、仕事では沢山あった。まったく洒落の通じない人とコミュニケーションを取るのは、ほんとに面白くないことだ。

 ところで、物理学で「マックスウェルの悪魔」というのがある。

 物理学に疎い私の理解から簡単に説明すると、素粒子の世界では、計測する対象が極めて微小なため、別の物質で構成された計測機械を使うことができないということがある。なぜなら、計測機械自体の大きさが素粒子に働きかけてしまうため、正確な計測ができなくなるからだ。そのため、素粒子を計測するためには、ひとつひとつの素粒子を対象にするのではなく、一定以上の大きさにまとめたものを対象にするしかない。つまり、物差しや道具を使うことなしに、大枠で把握してそこから類推するしか方法がないということなのだ。そして、そうした質量のない計測器があるとすれば、それは「悪魔」のような存在だからと、物理学者のマックスウェルが命名したのだ。(なお、上記に引用したリンクには、もっと的確な説明があるので、こちらを参考にしていただきたい。)

 これと同様に、何か非常に不安定な状態にある物事を正確に把握しようとしても、把握すること自体がその対象に働きかけてしまうため、特定のターゲットに対して把握することはできない場合がある。一方、把握可能なものとなり得るのは、ある程度の大きさあるいは蓋然性に拡大したものを対象にする場合であり、その対象全体の近似値を把握することで満足しなければならない。この場合は、「正確かつ誤差がないように」と主張するのは意味がないことになり、「凡その近似値で把握できればよい」というものだけが回答になる。

 しかし、こうした私の考え方を理解する人は、不幸にもこれまでただ一人も出会うことはなかった。別の言い方をすれば、1+1=2という考え方から、100+100=200として、そこからゼロ二つを取るというまわり道が理解できない人ばかりだったのだ。つまり、通常の思考形式や常識から外れた考え方が、どうやっても頭の中に入らないため、単純に「これは間違っている」と即断されてしまったのだと私は諦めるしかなかったのだ。また、もしそこで、「うん、これは良い考えだ」という人がいても、さらに上司や同僚が理解する可能性は相当に低かったから、結局私の思考方法が認められる可能性はなかったのだと思う。

 でも、一般的かつ常識的な闇雲に前進するだけの考え方ではなく、一旦後ろに下がる考え方を理解する人がこれから増えてくれたら、私のような非常識な発想をする人間には、相当に住みやすい世界になるのになあと、はかない期待を抱いている。

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