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<書評>『ロバート・キャパ写真集』


キャパ写真集の表紙

2017年 ICPロバート・キャパ・アーカイブ編 岩波文庫

 世界で歴史上初めて有名になった、報道写真家・戦争写真家ロバート・キャパ、本名エンドレ・フリードマンという、ユダヤ系ハンガリー人で後にアメリカ市民権を得た「キャパ」の写真集である。

 そこには、スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦、戦後のヨーロッパやソ連の風景、イスラエル独立(第一次中東戦争)、ヘミングウェイ等の友人たち、戦後の日本の風景、第一次インドシナ戦争(ベトナム独立勢力対フランス植民地支配)で撮影された映像がまとめられている。最後の頁は、1954年5月25日に地雷を踏んで死んだ「キャパ」が、その直前に撮影した映像で終わる。

 それらの映像の数々は、これまでに多くのメディアから教科書まで使用された、歴史的な写真がたくさん含まれており(歴史の目撃者「キャパ」)、長大な記録映画または歴史映画を観ているような錯覚をもたらす、視覚による強い力に満ち溢れている。そしてその内容からは、「キャパ」が、報道写真家、特に戦争を題材にしたものが多かったため戦争写真家とされたことに、素直に首肯せざるを得ないものとなっている。

 しかし、そうした数々の戦地の映像や戦後の風景、そして日本の風景で強く印象づけられるのは、子供を主人公にした映像であり、またその子供を取り巻く人々の日常生活がテーマとなっているものだ。なぜなら、そうした平和なイメージでありながら、戦地の銃声が鳴り響く以上に大きな、人々の生活をしている音が聞こえ、とりわけ子供たちの歓声や泣き声が聞こえてくるからだ。

 そう、そこには、子供たちを主役にした、「人」と「生活」があるのだ。

 戦争という非日常の光景でさえも、こうした「人」と「生活」の延長と考えるならば、「キャパ」は、まさに人とその生活を愛した写真家と言えるだろう。すなわち「キャパ」は、人々の生活とともに写真を(撮り続けることで)生きてきたのだ。

 一方、そこにはもう一人の「キャパ」がいる。戦争という激しいドラマの中のヒーローとして、メディアに祭り上げられてしまった「キャパ」だ。そして、この「キャパ」には、戦争の合間のしばしの休息は許されても、常時戦争の外にいること(つまり、日常生活の中にいること)は許されないような、まるでスーパーマンのような「英雄」が当たり前のように期待され、エンドレ・フルードマンはその虚像としての「キャパ」を演じ続けた。そう、本人エンドレ・フリードマンの意志とは無関係に、「キャパ」は戦地から戦地へ赴く偶像(アイドル)となり、そうした偶像物語(スーパーマンストーリー)に相応しいものとして、戦地で英雄的な死を迎えたのは、ドラマに結末があるように、「キャパ」の物語の終わりとして、必然とも言えるものだったことは、とても哀しい気持ちにさせられる。

 しかし、ベトナムで地雷を踏むことによって、「キャパ」という名の現実存在=生身の肉体は消滅したが、まさにこの英雄的な死を遂げることによって、「キャパ」というアイドルは永遠不滅のものとなり(つまり、神話世界でのまさに英雄だ)、現在でも大きな魅力を持って輝き続けている。それはまた、「キャパ」が愛した遊びに興じる子供たちの嬌声のように、世界中に響き渡っている声が聞こえる。

 こうして数々の名声に包まれることになった「キャパ」のきらめく多数の作品の中で、私は、スタインベックとともに鏡に映った作品が一番好きだ。なぜかといえば、そこにいる(写る)「キャパ」は、写真家エンドレ・フルードマン自身としてスタインベックを撮影していることが感じられるからだ。つまり、撮影している瞬間に、「キャパ」という架空の人格は消滅し、本来のエンドレ・フリードマンに戻っている。ここに私は、撮影者と撮影される者との一番幸福な関係を見ている。

キャパとスタインベック


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