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<閑話休題>慰霊の形

 あるラジオ番組でこんな投書があったそうだ。それは、80歳過ぎの男性が、知人が無縁仏として埋葬されている寺へ慰霊に行った。住職に知人の名前を見たいから、名簿を見せて欲しいと頼んだところ、個人情報だから見せられないと拒絶され、大変に悲しかったというものだ。

 当然、ラジオ番組のパーソナリティーは、個人情報保護を理由に教条的に知人の名前を見せず、80歳過ぎの男性の慰霊したい気持ちを阻害したというニュアンスで、住職の対応を嘆き、80歳の男性に同情するコメントをした。

 しかし、この種のエピソードとその反応はちょっと違うのではないかと私は思ってしまう。

 まず、個人情報の保護ということであれば、これは住職が勝手に持ち出した理由ではなく、残念ながら無縁仏の氏名・生年月日・死亡日などを悪用して犯罪を行う実害があるため、やむなく閲覧させないこととしたのだと、なぜ考えられないのだろうか。そこには、寺側の事情を考慮することなく、自分の「知人の慰霊にきた」という主張のみを一方的に正当化している姿しか浮かんでこない。

 さらに、慰霊するためには、知人の名がある名簿を見ることが絶対に必要なのだろうか。そして、そもそも慰霊とはどういうものだろうか。

 ところで、よく古代の墳墓などが発掘され、「そこに埋葬されていたのは王族などの高貴な身分の者であったと見られる」などとニュースで説明されている。しかし、この「高貴な身分」というのは、墳墓の状態から判断しているということになっているが、別の観点から考えれば、日本で墳墓という形体で埋葬されることは、江戸時代まで高貴な身分の者しかできなかったことを忘れている。つまり、一般庶民は埋葬されることはなく、そこいらの野原・谷・島・海などに投棄されていたのだ。

 日本のあちらこちらに「青」が付いた地名がある。青山・青池・青海、そして青ヶ島・青島。特に青ヶ島は元々(桃太郎が遠征する先の)鬼ヶ島であり、その鬼とは死者のことである。そして、青ヶ島の例に見られるように、青が付いた地名は死体を投棄していた場所なのだ。東京でも、現在高額な地価の街と称される青山には、有名な青山墓地がある。なぜそこに墓地があるのかと言えば、もともと死体を投棄した「青山」であったからであり、どこでも地面を掘り下げれば、古い遺骨が出て来ても不思議ではない場所なのだ。

 つまり、慰霊の対象となる墳墓は、高貴な身分の者だけが持てたものであり、圧倒的多数の一般庶民は、墳墓を持つことはできず、知人・友人・近親者の遺体は野原へ投棄していたため、慰霊する対象としての墳墓はなかった(持てなかった)。では、何を慰霊の対象にしていたのかと言えば、神社仏閣が出来てからは、これらの建物やそこにある神体や仏像が対象になっただろう。そして、神社仏閣が成立する以前であれば、庶民は慰霊をする具体的な対象を特に持たず、ただ己自身の心の中で、故人を追悼するだけであったと想像できる(なお、遺体を投棄した山・谷・海に向けて慰霊したことは想像できるが、それは墳墓ではない)。

 また、先の太平洋戦争の海外で亡くなった人たちは、遺骨が収集されていない方が多数となっている。また遠い南の島のどこか、あるいは太平洋の海の底に遺骨はあるかも知れないが、遺骨を収集して新たに埋葬することは不可能に近い。そして、そうした南の島や太平洋の海に行かねば、戦死者に対する慰霊ができないのかと言えば、そうではない。さらに、そうした場所で戦死者を慰霊しないことが、慰霊したい人たちの気持ちをないがしろにしているのかと言えば、そうではない(厚労省主催の慰霊団は毎年実施されているが、これは国が戦後処理の一環として行っているもので、個々人の通常にある慰霊の姿ではない)。そのため、国は慰霊のために靖国神社を建立した(間違っても「戦争神社」ではなく、戦争に関わって亡くなった人たちを慰霊する場所だ)。全ての戦死した人たちの魂はここに集っているため、戦死者を慰霊したいのであれば、国に対して名簿を要求することなく、靖国で追悼することができる。毎春、そうした慰霊の人たちのために、靖国の桜は美しく咲いて迎えてくれる。

 さらにこの思考を一歩進めれば、靖国に行く必要もないことに気づくだろう。靖国に祀られた御霊は、神社の敷地から日本全国の親族・友人・知人のもとを自由に訪れることができるから、心の中で故人を追悼する気持ちが大切なのだ。そこに故人の名前があって、それを目で見る必要はない。慰霊したい人の心の中に故人の個人情報があるだけで良いのだ(故人の個人情報を知らずに追悼する人はいないだろう)。どこでも、いつでも、慰霊したければそれはできるのだ。無縁仏のある寺に行く必要もなければ、そこにある名簿を見る必要もない。真に慰霊したい気持ちがあるのであれば、心の中で慰霊するのが最も良いし、それこそが「慰霊」という行為なのだ。

 こうした「心の中で慰霊する」という行為こそが、神道・仏教・キリスト教・イスラム教などの諸宗教の教える本来の慰霊の形ではないかと、私は信じている。そのため、私は死んだ後の墓を要求しないし、古来の庶民のやり方を踏襲して、遺灰を海に撒いて欲しいと遺言している。私の魂は天空に戻るが、肉体は元あった場所に返すため海に向かうのだ。そして、海は世界につながっている。こんなに素敵な肉体の最後の旅路はないだろう。

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