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<ラグビー>ラグビーの起源とNZ最古のラグビークラブについて

 「オールブラックスに次ぐNZ代表チームは?」ということを確認していくうちに、我が家にあるNZと英国のラグビー百科事典及びラグビー年鑑編纂者に昔照会した手紙などを、改めてひも解いてみた。すると、そこにはもう私が忘れてしまっただけなのかも知れないが、ラグビーの起源とNZ最古のラグビークラブに関する、かなり面白い記述があったので、ご紹介したい。

 これも私の思い違いかも知れないが、日本ではこうしたラグビーに関する歴史的事実が未だにきちんと一般に伝わっていないと思われる。さすがに、「1823年、(現在プレーされているような)サッカーのゲーム中にウィリアム・ウェッブ・エリスが、違法にボールを手に持って走り出したのが、ラグビーの起源」という人は減ってきたようだが、それでも、サッカー協会がラグビー協会より先に成立していることから、サッカーという競技からラグビーが発生したように誤解している方も多いと思うので、そうした誤解が解かれることを願っている。

1.ラグビーの起源

“The Ultimate Encyclopedia of Rugby” General Editor: Richard Bath, Executive Editor of “Inside Rugby Magazine” 1997 Carlton Hodder & Stoughton Books, Carlton Books Ltd. London, UK

究極のラグビー百科事典

 『究極のラグビー百科事典』というのが、英国で販売されていて、私の記憶では、昔出張したときにシンガポールの紀伊国屋書店で購入したと思う。かなり大きく重く厚い本で、これだけで帰りのスーツケースがだいぶ重くなってしまったが、貴重な本だと考えて今でも大事にしている。

 この事典の冒頭に、“The Origins of Rugby Game”と題した項目があり、冒頭に書いた「エリス少年がサッカーの試合中に突然ボールを持って走ったのがラグビーの起源というのは間違っている」という事実を毅然と書いている。また本文では、アイルランドの研究者が、”Caid”というゲームをエリスがプレーしていたのがラグビーの始まりという主張を、明確に否定している。

 同事典によれば、古代ローマ帝国時代にプレーされていた”Harpastum”というものがあり、これは数世紀にわたって中国や日本でプレーされていたものがローマに輸入されたと説明している(注:古代中国ならまだしも、古代ローマ帝国より同時期の日本が文化・文明的に進んでいたとは思えないので、これは誤解だと思う)。その後古代ギリシアで”Episkyros”と呼ばれてプレーされていたという。

Harpastum

 このスポーツ(注:人類にとっての「スポーツ」という概念は、近代になってから発生したので、そのまま古代にこの用語を適用することには無理があるため、むしろ「遊び」と称した方が適当かも知れない)は、2チームに分かれて、布や羽を詰めた革製の丸いボールを相手ゴールに運び込むものだったそうだから、現在のラグビーと似ている。また、事典の作者はこれこそラグビーの起源だと主張している。

(追記)
 2018年にイタリア旅行したときに、ローマのテルミニ駅にある本屋で、イタリア語のラグビー解説本(ハンドブック)を買った。ここにラグビーの起源として、古代ローマで行われていた”Harpastum”を現代に再現した画像が掲載されているので、ご紹介する(本稿の表題画像に使用)。イタリア人として、ラグビーに対する情熱は歴史的なものがあることに納得する次第。

 その後、12世紀のブリテン島(注:現在の英国)において、”Foote Balle”というものが村対村の戦いとして盛んに行われた。これはレスリング戦争とも称すべきもので、非常に荒っぽく、死傷者まで出ていた。その後16世紀に至ってから、(現在のサッカーではなく、原始的な)Footballと称されるようになり、流血や殺人がない、よりフレンドリー(穏やかな)レクリエーション(遊び)として行われるようになった。

 こうしたレクリエーションは、ブリテン島以外のヨーロッパ各地でも行われていた。アイルランドでは、”Caid”、コーニッシュ地方では“Hurling to Goales”(原注:現在アイルランドで行われているもの⦅注:「ハーリング」というホッケーに似た競技⦆とは異なるもの)、ブリテン島西部地域では“Hurling Over Country” 、東アングリアス地域では“Campball” 、ウェールズでは“Crapan”、フランスでは“Le Soule(陶酔?)”または“Chole(胆のう?)”、イタリアのフィレンツェでは“Calcio”と呼ばれたが、いずれも暴力的な面は多く残っていた。

 17世紀にフィレンツェで行われたCalcioは、27人が赤と緑の2チームに分かれて、より組織化されてプレーしていた。コーニッシュでプレーしていたHurling to Goalesには、オフサイドルールがあった。また1チームの人数は、15人、20人、30人と様々だった。1647年、Winchester Collegeでは、丸いボールを使用していたが、各パブリックスクールでは、独自のルールでフットボールをプレーしていた。Eaton CollgeではEaton Wall Gameをプレーしていた他、Harrow、Charterhouse、Shrewsbury、Westminsterでは、それぞれ独自のルールを持っていた。また、現在のAussie Rules(注:オーストラリア人はAustralian Rulesと称する)は、エリス少年がプレーする約100年前からプレーされていた。

 こうして英国のパブリックスクールでフットボールが流行している中、1835年にHoshway Actが発行された結果、フットボールゲームのルール(基準)が流通し、多くの人たちがプレーするようになった。一方、パブリックスクール独自のルールは残存していたが、この頃に現在のラグビーに通じるようなルールはなかった。

 そうした中で、1839年にRugby(ラグビー校)対Old Etonians(イートン校OB)のゲームにおいて、ラグビー校のプレヤーが手を使っていたという記録が確認されている。その後1848年には、Rugby、Harrow、Marlborough、Westminster、Shrewsburyの各パブリックスクールは、”Cambridge Rules”(ケンブリッジ大学のルール)を使用していた。そして、1861年、Blackheath対Richmondの試合を、“Harrow Rules”(ハロー校ルール)でプレーしたのが、最古のラグビー試合とみなされており、その後ラグビー校のOBが、“Rugby Rules”(ラグビー校のルール)と言い換えた。

 また、各パブリックスクールが皆ラグビー校のルールをプレーしたわけではなく、Charterhouse、Eton、Westminsterのパブリックスクールは“Kicking Codes”をプレーし、 また、Harrow、Blackheath、Cheltenham、Marlboroughのパブリックスクール及びロンドンのフリーメーソン本部では、これが盛んにプレーされた。一方、1986年に違法になっていた、“Hacking”(脛を蹴ること)及び“Tripping”(足をひっかけること)を正式に禁止するとともに、”Carries”(ボールを持ち運ぶこと)を認めているケンブリッジ大学が採用しているルールを、各パブリックスクールが導入し始めた。またBlackheathでは、 “that a player may be entitled to run with the ball towards his adversaries goal if he makes a fair catch”(フェア―キャッチしたプレヤーは、相手陣ゴールに向かってボールを持って走る権利が付与されるとみなす)というルールの採用を拒否していた。

 ここに至って、Association football(現在のサッカー)とRugby football(現在のラグビー)が完全に分化することとなったが、各クラブがどのルールを採用するかは、しばらく混乱していた。そうした中で、1870年にラグビー校OB対マールボロの試合がラグビールールで行われ、1871年にラグビー校は、自分たちのルールの同調者として20クラブを集めることに成功し、その中には、Richmond、Harequins、Blackheathが含まれていた。また同年、ラグビー校OBが、Low of Rugby(ラグビーのルール)を明文化した。

 1872年に、オックスフォード対ケンブリッジの最古の大学同士の対抗戦であるバーシティマッチが始まり、1875年には、医学系大学クラブ同士の対戦によるホスピタルカップが開始されている。イングランド以外の地域では、北ボーダー地方(スコットランドとの国境付近)で、Merchiston Castle School 対Edinburgh Academy OBのゲームが1858年に行われ、アイルランドでは、1854年にラグビー校OBがダブリンの名門校であるトリニティカレッジにラグビークラブを作り、ウェールズでは、St.David Collegeに1850年代から同様のゲームをプレーした記録が残っている。

初期のラグビーゲームなど

 こうしてラグビーがメジャーになっていく中で、1871年最古の国際試合であるイングランド対スコットランド(通称カルカッタカップ、カルカッタにいた大英帝国居留民がカップを寄贈したことが名称の理由)が始まった。イングランドのキャプテンは、ブラックヒースOB、スコットランドのキャプテンは、エディンバラOBだった。さらに、1883年には、イングランド対ウェールズが行われ、その後ファイブネーションズ、シックスネーションズ、海外植民地(NZ、オーストラリア、南アフリカなど)とのゲームへと発展していき、現在に至っている。

2.NZ最古のラグビークラブ

 昔NZウェリントンにいたころ、“The Encyclopedia of New Zealand Rugby ” R.H.Chester, N.A.C.mcMillan, R.A.plenski, 1981 & 1988 Moa Publication ,New Zealand というNZのラグビー事典を購入した。一方、たしか新聞記事(ウェリントンのドミニオン紙)だったと思うが、クライストチャーチクラブがNZ最古のラグビークラブとして、創立100周年を祝ったとの記事を読んだ。

 私が個人的に所属していたウェリントンクラブは、創立1870年となっており、ネルソンクラブとともにNZ最古のラグビークラブだと思っていたところ、それと異なる記述だったので、その真実を確かめたく、出版元のモア出版に照会の手紙を出した。

 すると、親切な出版社の担当者は、こうしたことを扱っている毎年のNZラグビー年鑑を作成している会社に転送してくれ、そこの担当者が、過去のラグビー年鑑に記載してある、クライストチャーチクラブの件や、NZ最古のラグビークラブとは何かについてのラグビー年鑑からのコピーを、丁寧な手紙とともに送付してくれた。

出版社からの手紙

 それによれば、“Rugby Almanack of New Zealand 1964”(1964年版NZラグビー年鑑)に Arthur Swanという, Official historian of New Zealand rugby union(NZラグビー協会公式歴史担当者)の記事があり、そこには次のように書いてあった(注:原文は省略しました。また以下は私の和訳です)。

NZ最古のクラブその1


NZ最古のクラブその2


NZ最古のクラブその3

「1963年7月19~23日、クライストチャーチクラブは100周年を祝ったが、そこで1863年当時にプレーされていたのは、確かにラグビールールだったが、クラブ自体はラグビークラブではなかった。(注:原始的なフットボールクラブであった状況で、現在のサッカーのルールをプレーしたり、またはラグビーのルールをプレーしていた。)」
「NZ最古のクラブ同士のラグビーゲームは、1870年5月14日、南島ネルソンのボタニカルリザーブ(植物園の芝地)で行われた、Nelson football club(ネルソン・フットボールクラブ)対 Nelson college(ネルソン・カレッジ)のゲームである。」

 つまり、NZ最古のラグビークラブは、1870年5月に対戦したネルソンクラブとネルソンカレッジの2つである。その後に、クライストチャーチクラブ、ウェリントンクラブ、オークランドのクラブがラグビークラブとして次々と創立していったということになる。

 これで、私のNZ最古のラグビークラブという問題は解決した。一方、当時のNZでのスポーツ環境を想像してみると、英国本土やNZ以外の大英帝国海外植民地からやってきた人たちが、英国本土でやっていた原始的なフットボールをNZでもプレーし、その後NZに植民した人たち及びマオリの間で定着していったということがわかる。

 日本での最初のラグビーゲームは、日本にやってきた大英帝国の軍人や居留民がプレーしたものであり、その後1899年に、現在の慶應大学に英国人クラークがラグビーチームを作らせたのが始まりとなる。(詳しくは、以下のウィキペディアを参照。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3

 ところで、 上記のNZ協会公式歴史担当者のSwanは、『1866年のフットボール・ハンドブック』“Handbook of Football 1866”, Messrs, George Routledge and Sons, Brodway, Ludgate Hill, London.の内容を紹介しており、その中で面白いのが、当時プレーされていた5種類のフットボールを分類している部分だったので、参考までに以下に抜き出してみた。

(a)The game of football as observed at the schools where no “carrying” or “handling” the ball is allowed.(多くの学校で見られているフットボールで、それはボールを運ぶことまたは手で扱うことが許されていない。)
(b)Westminster Rules.(ウェストミンスター校のルール)
(c)Rugby Football and Rules of Rugby Football.(ラグビーフットボール及びラグビーフットボールのルール)
(d)Simplification of the Rugby game as played at Marlborough.(マールボロ校でプレーしている簡素化したラグビーのゲーム)
(e)Football Association Rules.(フットボール協会のルール)

 この文章からだけでは、実際にどのようなフットボールがプレーされていたのかを確定できないが、説明文を読むと、なんとなく、(a)、(b)、(e)は、現在のサッカーのルール、(c)、(d)は、現在のラグビーのルールのように思える。つまり、当時はまさに現在のサッカーとラグビーがともにフットボールとして混在していたことが良くわかると思う。

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