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<書評>『アラビアン・ナイト(E.ディクソン版)』

『アラビアン・ナイト』E.ディクソン著 中野好夫訳 岩波少年文庫 1959年初版 2001年改版 人類にとって貴重な古典なので、☆評価の対象外です。

『アラビアン・ナイト』上巻
『アラビアン・ナイト』下巻

10~12世紀にかけて、ペルシャ・インドで語り継がれた民話を集め、さらにカイロで、「アルフ・ライラ・ワ・ライラ(アラビア語で千一夜=たくさんの夜)」として集成された物語を、1703~13年にかけて、フランス人のアントワーヌ・ゲランが、主人公の語り部であるシエラザード姫の名前を借りて書名を「シエラザード」とし、さらに、カイロで収集した「シンドバットの7回の航海譚」と「アラジンと魔法のランプ」の話を追加して、西欧世界に初めて出版した。

その後、18世紀に入って、この翻訳の原本となったディクソンが原本から面白そうな話を抜き取って、「アラビアンナイト」として出版した。名前から1,001個の話があるように誤解されるが、実際は300弱の物語が収められている。

仏訳本の題名になっている主人公のシエラザード姫は、女性不信のため、一晩女と過ごすと翌日は殺してしまう王様に呼び出されたものの、毎晩大変に面白い話をし、話が佳境に差し掛かったところで夜明けを迎えるように語った。そうして長い時間が過ぎたために殺されずにすみ、目出度く王様の妃になったというのが全体を流れる背景となっている。

本書は原本からさらに抜粋したものだが、原本になかった「シンドバット」と「アラジン」は、たしかに他の話とは若干趣が異なっているように感じられるし、語り口が違うように思えた。そして、「アラジン」のストーリーには、2つの疑問が見つかってしまった。

それは、第一にランプを最初のこすったのは、アラジンの母であるのに対して、ジン(魔物)は、ランプを実際にこすっていないアラジンを主人と誤認識していること、第二にアラジンは、ランプの他にもこするとジンが出てくる指輪をもらっているのに、これは1回しか使用せず、後はその存在すら言及されなくなっていること。これでは、いくら昔話でも整合性が取れていない未完成の物語に思えてしまう。

それから、「アラジン」の物語の大団円は、貧しく素行が悪いアラジンが、魔法のランプに住むジンの力によって巨万の富を得て、その金の力で皇帝の娘と結婚することになっている。これって、現代の日本でいえば、暴走族などの非行を繰り返したあげく少年院に入ったものの、出所後は芸能界で成功して成金になった。そして、その金の力を使って大臣の娘と結婚して、名誉も得たというようなものだろう。もっと即物的にいえば、小室圭が、借金を踏み倒して成り上がったのち、皇族の娘と婚姻するようなものだろう。

つまり、千年昔だから夢のある物語であったものが、今や俗物そのものの卑しい物語を彷彿させてしまうものに、時代そのものが変化していることを実感する。

他にも、奴隷が普通に出てくるし、シンドバットが出会う異国の敵対的人間や魔物は、全て黒人であり、さらに姫を含めて女性は男の財産のように扱われている。そもそも、そんな21世紀の視点で読むこと自体ナンセンスではあるが、そうしたアラブ文化及びイスラム文化の原点を垣間見るような印象を与えてくれる。さらに、人命が軽い。すぐに首を切ってしまう。今の解雇を意味する「首だ」とか「首切り」が、まさにその通りだった時代なのだ。これが英語圏だと「ユーアーファイアー(火あぶりにする)」ということで、解雇=火刑だったことの名残りだとわかる。

最後に、物語として秀逸だったのは、下巻にある「魔法の馬」(21世紀の空飛ぶバイク?)と「ものいう鳥」(冒険+怪異+カタルシス)の2つだと思う。この2話は、物語を作る上で、何が必要でどう展開するかをしっかりと学ばせてくれるお手本だと思う。


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