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写真エッセイ〜2023年1月〜

昨年末から書こうと思っていた写真エッセイ。いざ、書き始めてみたのは良いが、いろんなところをくすぐられているような感覚をまだ拭えていない。だらだら長い文章は書く気力があれば誰でも書けるといつか本で読んだ。一方で、簡潔に、そして的確に、さらに効果的に言葉をまとめるためには相当な努力が必要らしい。これは書き始めたことで、嫌というくらい思い知らされている。そんなボクが最低でも5年間、毎日文章を書くことに決めた。

このnoteはそんなボクがお届けする、初めての"写真エッセイ"だ。5年後に振り返ったら、恥ずかしくて読めるような内容にならないかもしれない。だから、もしこのエッセイを気に入ってもらえたら、スクショしてクラウドに保存してもらえたら嬉しい。消してしまうかもしれないから。もし、5年後にボクが初めての写真エッセイを探していたら、クラウドに眠っているスクショのデータを送ってください。明日のことも分からないのに、5年後の心配をしてしまう。だけど、必要なことだ。

シン・雑草

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冬が朝の訪れを教えてくれるのは、いつもボクが目覚めた後だ。電車から日の出を見ることも、あと数日経てばできなくなってしまう。地球が、ちゃんと周っていることを気付かされる。6時15分と25分にスマホのアラームを2回セットしているボクは、前日寝る時間がどれだけ遅くなっても、1度はその時間に目覚める。週に4、5回はアラームが鳴る前に起きてしまうので、ずっと緊張しながら眠っているのかもしれない。遅刻しちゃいけないという生活を小さな頃からしてきたからだと思う。

十二日戎

ボクは中学生くらいまで、目覚まし時計を使っていなかった。毎朝、親に「七時ー!!七時ー!!」とめざましテレビのように時間を告げられても、あと5分だけと布団に潜って抵抗していた。「遅刻するでー!!」、毎朝そう言われていると慣れてしまうもので、まだ大丈夫と思っている日に限って本当に遅刻しそうな時間になっている。時計を見て慌てて飛び起きる。スティックパンを頬張りながら服を着替えて、持ち物の確認をする。あのときの準備のスピードは、自分でも早かったと感心してしまう。そんなに慌てるならもっと早く起きれば良い。分かっているけど、同じことを高校まで何度も何度も繰り返していた。高校から目覚ましを使うようになったが、止めて二度寝していた。学習能力がないだけのか、学校まで走るか、自転車で巻き返せば何とかなるから大丈夫と思っていたのだろう。若かった。

めちゃくちゃ慌てているのに、少し離れたところで客観的に自分を見ているもう1人の自分。あの感覚は、交通事故にあったときに周りがスローモーションに見える感覚と同じ類のものかもしれない。本や体験談でしか聞いていないから、宙を舞っている間の時間の進み方がどんなものか知らないし知りたくもないが、恐らく似たようなもんだとボクの勘がそう言っている。ほとんど間違いないだろう。ボクの勘はウェザーニュースの週間予報と同じくらいよく当たる。親と子の話をしたからそれっぽい写真を載せておく。

左が母、右が子

写真はこれくらいのゆるさがちょうど良い。それにしても、素晴らしい写真エッセイだ。これが努力により得られた才能というものなのだろうか! 5年後に読み返したら、「何言ってんだ!恥を知れ!」と、2023年の自分に言ってやりたいと思っているはずだ。だけど、このエッセイが書けるのは今の自分しかいないし、ボク以外誰にも書けない。初めて書いた写真エッセイを自画自賛しながら、恥を知れ!と自分を戒める。多重人格ですか? そうなのかもしれない。いや、たぶん多重人格だ。こういう文体で書いているときのボクは、ボクであってボクでない。接する人や環境によって、人との接し方が変わるように、文章も内容に応じて変化するものである。勢いで書きたいとき、じっくり書きたいときで、気分が同じであるはずがない。なんとなくだけど、ボクの場合は、勢いで書いていると「エッセイ」が書けるような気がする。

エッセイを書くときのペンネームを考えるのもアリかもしれない。その方が、よりもう1人の自分になりきれそうな気がする。せがた三四郎みたいな名前が良いんだけど、生憎ボクは大学時代にポケモンダイヤモンドをして以来、ゲームから遠ざかっている。子どもの頃からゲームより音楽を聴いている方が楽しかったから、ゲームの楽しさがよく分からない。ゲームはすぐ飽きてしまうのに、好きな音楽は1日中リピートしてても飽きない。だから飽きずにゲームができる人の感覚はなんとなく分かる。理屈じゃない、ただその世界に浸っていたいんだ。ボクの文章が目指す場所だ。ずっと眺めていたい文章。毎日1ページずつめくれるような詩集をいつか作れれば良いなと思う。

ボクは今が買いどきのエッセイスト

今は文章の素人だけど、5年後にはきっと化けているはずだ。お化けになるという意味ではない。ボクはまだまだ生きたい。ロビンが泣きながら生きたいと伝えるシーンが浮かんでくる。明日も生きていると思っているから、わざわざ生きたいと言わない。毎晩、閻魔さまに「生きたいか?」と問われるようになったとき、迷いなく生きたいと答えられる人はどれくらいいるんだろう。現実に疲れた状態で、そう問われたら、ボクだったら即答できない。でも、思うんです。閻魔さまくらいの存在だったら、口から出た言葉が本心かそうでないかくらい聞かなくてもわかる。それなら最初から聞かないでと思ってしまうけど、役に徹しているのだから聞かざるを得ない。

誰かが悪者にならないといけないんだと言った人がいたけど、本当にそうなのだろうか。一人一人が自分自身と対話することができれば、悪者を用意する必要がなくなるはずだ。ライバルが居ないと成長できないのか。憧れの存在が、いつの間にか越えたい目標になり、その先が描けていなかっただけではないのか。生きて生きて生きて生きていたんだ。あいみょんもそう歌ってるように、意識していれば、自ずと目指す山のてっぺんが見えてくると思うんです。あいにくボクのお山のてっぺんは、いま雲に覆われています。だからこうして毎日書いているのかもしれません。

生きろ

話が逸れましたね。5年後には化けているという話でした。第一線は言い過ぎかもしれないけど、第三線、いや第二線くらいで活躍しているエッセイストに化けていると思います。『結局、運なんだよ!』と言われてたら、それまでかもしれません。ボクよりずっと前から毎日noteを書いている人はたくさんいるし、その中で第一線で活躍されているエッセイストがどれくらいいるのかも知りません。5年なんてあっという間です。その間に大阪万博もあるので、それをうまく踏み台にすれば、ボクの写真エッセイは大阪から日本へ、そして世界へ、さらに宇宙へと広まる可能性を秘めています。宇宙語が分かるのかと心配してくれる人もいるかもしれません。だけど、大丈夫、何も心配しなくて良いんです。宇宙人は地球人より、経験も知識も豊富なので、日本語で書いていても伝わるんです。「おいおい! それじゃあこんなくだらないこと書いてたら、もうその時点で相手にされないよ!」と指摘を受けそうですね。その通りかもしれません。宇宙人に会いたいと書けば、宇宙人の技術レベルならすぐに届きそうですもんね。でも、考えてみてください。宇宙人には宇宙人の価値観があって、それにマッチする文章が書ければ時代がひっくり返るかもしれない。なんだかワクワクしてきませんか? 自転車の前カゴに目覚まし時計を入れて、爆走してたら宇宙まで飛んでいけるかも!

見える!見えるぞ!
自転車に乗った影が! 私には見える!

これまで生きてきて、こんなに素晴らしい文章に出会ったことがないという文章はいくつありますか? そのうち一言一句間違わずに言える言葉はありますか。5秒くらい考えてみてください。

「キルアじゃなきゃダメなんだ」。これは漫画HUNTER×HUNTERの中で、ゴンがキルアに伝えた言葉です。何も知らなくても、良い言葉だなって思いませんか? kindleでカラー版を大人買いしてから、1カ月で2周するくらい読んでいます。コミックスももちろん全巻持っているんだけど、スマホがあればいつでも、しかもカラーで読めるメリットは想像以上に大きかったです。話が逸れそうなので戻します。この台詞、友人や好きな人に同じように言われたら、きっと嬉しくてたまらないはずです。ボクは好きな人に言ってもらったときの妄想を良くしていました。現実には何もアクションを起こせない、人見知りでしたが。さらに、もっと赤裸々に気持ちを伝えたのがコナンです。

「おめぇのことが、好きだからだよ、この地球上の誰よりも」

きゃー!! 惚れてまうやろーー!! この台詞を照れることなく言えるのが、コナン、いや、新一の凄いところです。もう何回観ても、観てる方が照れちゃいますね。「瞳の中の暗殺者」という映画の中で、記憶喪失になった蘭が記憶を取り戻すための重要な役割を果たした台詞です。もし、観たことない人がいたら観てください。YouTubeでセリフを検索したら観られるので、それで興味をもったらブルーレイを買うもよし、配信で観るのもよし、好きなように観てトキメキをチャージしましょう。来世はこんな台詞を照れることなく言えるような男になるか、こんな台詞を言ってもらえる女性になるか、それを見守る遊園地に生えてる木になりたい。たくさんの人の喜び、そして悲しみを受け止める大きな木。この木があったから、あの日の辛さを癒すことができたの、そんな風に思ってもらえるような懐の大きい存在になりたい。そう、ボクは別に木になりたいわけじゃない。勢いで良く分からないまま書いてしまったけど、来世も人がいい。朝起きるのが辛いとかいうクダラナイ理由で本気で悩み、真剣に考えた方がいいようなことを後回しにしてしまう、生きて生きて生きてイキタイと願う、そんな人間の姿を見ると何故か愛おしくなる。不完全なものに宿る美。いつまでも変化し続ける可能性を示すことで誰かを魅了する。ボクは写真と文章で、それを実現させたい。

初めての写真エッセイに最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
明日からもよろしくお願いいたします。

平井裕士

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