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1/17 好きな写真について#15

もう同じテーマでは書けないと思ったとき、それでも書き始めると何か書けてしまう。これがnoteの魅力なのか、ボクの経験によるものかは分からない。日々、好きな写真について考えていても余程のキッカケがない限り真新しい発見は得られないし、今まで誰も到達していない結論が導き出せるとは思っていない。では、なぜ書くのか。

noteのアプリを立ち上げるたびに、更新情報やおすすめが表示される。皆、何を思い、なぜ書いているのだろうか。知る由もないが、もしかしたら戦力的に書いている人の方が少ないと思うことがある。だから、稀に狙いに来たと感じるようなタイトルを見るとゾワゾワする。緊張しながらタップして期待を裏切らない内容だったときの、嬉しさと悔しさはボクの書きたいという欲求を刺激してくれる。2023年中に1本はそういうnoteが書けたら良いなと思っている。それを、この『好きな写真シリーズ』で達成したい。タイトルと中身がアンマッチな部分をちゃんとすれば、可能性はゼロではないと思っている。例えば、これまで書いてきた好きな写真についての想いの中から、ボク自身が納得できる結論を深掘りして構成すれば、それなりのnoteに仕上がるだろう。だけど、ボクはそういう書き方はしたくない。そのときの気持ちをありのままnoteに打ち込み、自分でも予想していなかった結論を導き出したときの達成感を得たいのだ。ボクがnoteを書く理由は、これに尽きる。好きな写真に対する答えが出る前に異なる問いに対する答えに辿り着いてしまった。いつなんどき、どんな経緯で自分の想いに気付くのかは誰にも分からない。それを認識することで、無駄な時間などないかもしれないという新しい問いが生まれる。毎日を豊かにするためには、自問自答は不可欠だとボクは思っている。それにより、憂鬱になってしまうこともあるが、それすらもなぜ憂鬱になるのか問うことで、自分と向き合えるようになる。

写真も同じではないだろうか。撮ったときは上手く撮れたと思っていても、家に帰って見返すと思ってたほど良くない。このとき、また撮りに行こうとすぐに気持ちを切り替えるのも良いし、モヤモヤした気持ちの正体を考えるのも良いと思う。原因分析をしてからじゃないと次の撮影になんて行けないと意固地になるのも、時と場合によって自分の判断に任せればいい。絶対に原因を突き止めないと行けないんだと、自分を追い込む必要なんてない。ましてや、誰かがそうすべきだと言っていたからというような考えになってしまっては、写真を嫌いになってしまうリスクも背負うことになる。真剣に考えるべきところは考えるけど、余力は残しておく。そして、今が勝負だと思えた瞬間に全身全霊で立ち向かえるように準備する。神様を信じている訳ではないが、写真のことを真剣に考えているといつかそういう瞬間に立ち会えると信じている。それは、常日頃から写真に対して向き合い、準備が出来ていたから引き寄せられた結果なのかもしれない。得られた写真が、好きな写真と言えるのかは、まだ分からない。どれだけ好条件で撮れたとしても、好きと感じるかは別の問題だと思っている。空全体が鮮やかなピンク色に染まる夕焼けを撮ったこともあるが、綺麗な写真だとは思っても好きな写真にはならなかった。早く帰らないと子どもが家で待っているという思いがあったからだと思う。自分の中で引っかかりがある状態で撮った写真は、どれだけ良い写真であっても好きな写真にはならない。つまり、自分が納得できる状態で撮影した写真であることが、ボクにとって好きな写真の必要条件だと言えそうだ。

それではまた続編を機会があったら読んでくださると嬉しいです。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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