見出し画像

【短編小説】二十三歳からの幕開け、それからの第二幕について

 三年間側に置いていたキーボードを捨てることにした。
 経年劣化したから買い替え、ではない。単純に才能が無いのを自覚してしまったからだった。

 ピアノに魅入られたのは、大学を中退して特に目標も無くぶらぶらとフリーターとして燻っていた頃。その日は都内に単発バイトに行く予定があって、その帰り道の駅での事だった。
 クリスマスも近い日。駅にデカデカと置かれたグランドピアノに一人の男性が座っていた。よくやるな、と思った。駅に置いてある自由に弾けるピアノは二十年ほど生きていて数回ほど見たことはあったが、実際に人が座っているのは見たことがなかった。目立ちたがりなのか、それか腕に余程自信があるか。
 仕立ては良さそうなスーツを着ているが、前髪が長く、暗い雰囲気を纏ったその男性は、椅子に座ったまま動こうとはしない。その間になんだなんだと暇なギャラリーが増えていく。かく言う俺もその内の一人で、男がピアノを弾くのを今か今かと待っていた。目立ちたがりがどれだけの腕か、見てやろうじゃないか。
 その時の俺は若かった。全てを斜めに見ていて、馬鹿にしていた。昔無理矢理やらされていたピアノ教室では男女比が恐ろしいほど偏っていて、男がピアノなんて、と偏見すらあったので、下手なら笑ってやろうとすら思った。
 ギャラリーが十人程になった時、男は鍵盤に指を乗せた。それが合図だった。
 聞き覚えのあるメロディ。曲名は素人の俺でもわかる。ドビュッシーの「月の光」だ。
 だが、俺の知っている「月の光」とは最初の音から違う。よく安眠CDとか、リラックスCDだとかに入っているから音楽を避けていた俺でも旋律は知っている。だけど、こんなにも澄んだ音色のものは初めて聴いた。
 クリスマスの曲じゃねーのかよ、とか、プロがこんな所でドヤ顔しに来るな、とか、そんないつもなら皮肉混じりに言ってしまう事は一切頭に浮かんでこなかった。ただただ、その技術に心が掴まれたように俺はその旋律に時間も忘れる程に聴き入ってしまっていた。
 意識が戻った頃には、ピアニストもギャラリーも全て消えてしまっていて、もしかして今までの事は夢なのかと思った。それくらい、時間を忘れて突っ立ってしまうほど。あの演奏は俺にとって衝撃的な事だった。
 『ピアノなんかやりたくない』
 幼少期の俺がそう叫ぶ。嫌々やらされて、結局一ヶ月でピアノを弾くのは辞めた。
 『音羽』と言う名前は親が音楽で知り合って、それで子供にも世界に羽ばたくレベルの音楽家になって欲しかったかららしい。だけど俺からしたら、ピアノより外でサッカーがしたかったし、泥遊びがしたかった。そう泣きながら主張する俺を見た両親は俺を音楽の世界に行かせる事を諦めたようだけど。
 一歩、グランドピアノに近づく。
 ピアノが置かれている段差を上がり、俺は鍵盤に触れた。
 ーーあれだけ嫌がってたピアノを今更?
 「月の光」の最初の音を朧げに鳴らす。同じ楽器を使っていると言うのに全く違う音が響く。通りかかる他人からは見向きもされない。
 それでも、なんだか良いな、と。
 そう思った。

 その日のうちに最寄駅のPARCOの中にある楽器屋でキーボードを買った。大学を中退して、残り二年かかるはずだった学費を手切金代わりに親から渡されて一人暮らしの身。特に趣味も無く、慎ましく暮らしていた俺的には割と高い金額だったが、貯金はまだある。
家に置かれていたキチンとしたピアノではないけれど、それでも十分だった。
 それからキーボードが郵送されるのを待つ間にネットでピアノ教室を調べて、バイトを減らして通うことにした。
 正直、ピアノは難しかった。母親にもよく言われたが、幼少期からやっていた方が覚えが良いし身体も動く、と言うのは本当だったらしい。右手、左手、足。バラバラに動かしたり、一緒に動かしたり。元々要領の悪い俺には難しくて、やっぱり無理だと思うこともあった。それでも、あの日の音色が頭から離れなくて、必死に食らいついた。半年くらいすると簡単な曲(「猫踏んじゃった」とかそのレベルの曲だ)が弾けるようになって、その時は達成感があった。良い大人が猫踏んじゃったで喜ぶなんて馬鹿だろ? でも、あれだけ嫌だったピアノが好きになって、バイトを少なくして、朝から晩まで鍵盤を叩いた。楽しかった。あれだけ嫌だったピアノが日常になっていくのはなんだかおかしくて笑ってしまう。特にどうなりたいとかはない。ただ、あの男の様に弾ける様になったらどれだけ楽しいだろう、とそれだけを思って、一年、二年が経って少し弾ける、と言えるくらいになった。

 だけど、楽しい時間はすぐに終わる。
 壁にぶつかったのはすぐだった。
 教室の先生には褒めてもらえる。最初の頃から比べたら随分上達したと。
 でも、俺は焦っていた。どんなに練習しても同じ所で躓く。指がうまく動かない。ピアノはそこそこの物を使っているのに、あの男みたいな音が出ない。
 そうして思い出した。
 そうだ、俺は。昔の俺はこれが嫌で辞めたのだ。他人と比べて、上手くない自分に失望して、絶望して、いじけて、それでみんなが集まる方に逃げた。
 外で遊ぶのが好きだった。自分の技術に向き合わなくて済むから。泥遊びが好きだった。みんなと居れば一人で悩まなくて済むから。
 それを思い出して、教室を辞めた。いつしかキーボードにも埃が積もる様になった。
 才能が無い人間にピアノは出来ない。
 俺は空いた時間をバイトで埋めて、忙しいふりをした。三年、ちょっと気の迷いがあっただけだ。最初からわかっていたじゃないか。俺はあの男みたいにはなれない。いや、最初から目指してすらなかった。俺はピアノで何がしたかったんだろう。
 昨日、家のキーボードをゴミ袋に入れて粗大ゴミシールをもらってきて貼り付けた。今週捨てようと思っていた。
 この男に出会うまでは。
「キミ、ピアノやってただろ」
 ベランダでタバコを吸っていると、隣を隔てる板からひょこっと頭を出して声をかけてきたのは黒髪をオールバックにしたスーツの男。何かの勧誘か? そう思い聞こえていないふりをした。
「おいおい、無視するなよ。オレは宗教の勧誘じゃない。勧誘は勧誘でも、夢を買わないか? って言う特別勧誘をしてる営業マンだ」
「夢を買う?」
「そう! キミ、ちょっと前までずーっとピアノ弾いてたのに最近めっきりじゃないか。何か嫌なことでもあったのか?」
 ……キーボードにはヘッドホンをつけていたはずだが。だが隣に振動でも届いていたのだろう、と予想をつけ答える。
「才能が無いのに気がついた。あー……、聴こえてたなら煩くしててサーセンした」
「ふむ」
 男はそう頷くとベランダの柵に足をかけた。
「ちょ……」
 ーーまさかここまで来るつもりか!?
 片手にタバコを持ったまま俺は慌てる。ここは五階だ。万が一落ちてしまったら、なんで考えてそして気づく。
 男は既に目の前にいる。それも、空に浮いて俺を見下ろしている。そうだ、よく考えてみろ。最初からおかしかった。俺があの日、即日即決でキーボードを買ったのは迷惑をかけるお隣さんがいなかったからだ。それは三年経った今も同じで、先程彼が首を出していた部屋は空き部屋なはずだ。
「こんばんは。キミの名前を聞いてもいいかい?」
 男には翼が生えている。薄い皮が張られた蝙蝠のような大きい物を背につけ、下半身には尻尾の様なものがぶら下がっていた。あまりの異常事態に理解するのに時間がかかったが、この男は人間では無いらしい。
「……斎藤、音羽」
 俺の口から無意識に溢してしまっていた名前。こんな不審者に名乗るなんて普段ならしないのに。
「ふむふむ。術のかかり具合もOK、と。さて、音羽くん。ここからはビジネスの話になるんだが」
 男は宙に両手を上げると手品の様にペンとバインダーを取り出した。
「この通りオレは悪魔で営業マンだ。ありがちな話だよ、願いを叶える代わりに寿命をもらう感じの仕事をしてる」
 よく漫画とかでよくある設定だ。これは夢か、そう思ったが、消していなかったタバコの火種で指先を焦がし慌てて消す。痛み的に夢ではなさそうだ。
「だがオレは悪魔にあるまじき優しさを持ってしまった罪な男だ……。普段は自分から声をかけることなんてしない。生きていたらなんでも出来る。だから夢を持ったキラキラした人間には決して声をかけない」
「おい、それ俺がキラキラしてないみたいだろ」
「そう! キミの様な死んだ目で! 特に目標も無く! ただ生きているだけの人間は契約に全く良心が痛まない! こんなの珍しいんだぞ? 若いのにこんなに生命力がもやしみたいで濁ったオーラを纏った若者なんて!」
 男はそう興奮した様に言い、俺にバインダーを押し付ける。紙には異国の言葉の様な文字が書かれていて読むことができない。読めない書類にサインするわけないだろう。さてはコイツ仕事出来ないタイプだな。
 せめて読める書類を持ってこい、そう睨みつけると男は要約してくれた。
「まあ内容はさっき言った様にキミの夢を叶える代わりに相当する寿命を貰うと言う話だ。キミには何か夢があるか? なんでも良いぞ? 億万長者でも良い! ま、その場合は寿命八十年程貰うがな!」
 何が面白いのかワハハと笑う男を眺めながら考える。
 夢。そんなものこの二十うん年の人生で一回も持ったことがない。なんてったって幼少期、将来の夢の欄にサラリーマンと書いていた部類の人間だ。夢なんてあるわけがない。かと言って、今更サラリーマンになるのも嫌だし。金にも興味がない。バイトで慎ましく暮らしていければそれでいい。
 その時、ベランダにゴミ袋に包まれたキーボードが目に入った。
「……ピアノが、」
「ん?」
「ピアノが上手くなりたい」
 ピアノ教室時代、浮かれていた時の話。一瞬だけ思った事がある。音大に遅れて入学するのもアリかもしれない。貯金はあるし、親に言えば喜んで学費を出してくれるだろう。それで舞台に上がる様なプロにはなれなくても、それこそ、子供向けピアノ教室の先生とか、そういう道もアリかもしれない、と。
「なるほどなるほど。そう言うことか! 任せろ! 寿命六十年分で手を打ってやる!」
「そんな取るレベルなのか……」
「お前には音楽の才能が無いからな。これでも安い方だ。出血大サービスだぞ。さあ手を出せ」
 大人しく両手を出すと、宙から金色の指輪が手に落ちてくる。
「そいつはウチの目玉商品でね、足りない技術を補ってくれる」
「これつけてピアノ弾いたらプロになれんの?」
「そこまでは保証できない。そうなるかならないかはキミの努力しだいだから」
 とりあえず左手の人差し指につけてみる。別に不思議アイテムでもなんでもなさそうな、プラスチック製らしいおもちゃの指輪だ。
「試しに今から弾きに行ったらどうだい? グランドピアノならわかりやすいだろう」
「弾きに行くって?」
「駅にあるだろう?」
「公開処刑されろってか!?」
「やればわかる」
 ベランダから部屋へ、部屋から玄関へ。押し出されてポイ、と室外に投げ出される。
「丁度最寄り駅にピアノが出される時期だろう。効果が信じられないなら、いつも弾いている手持ち曲の一つでも披露してきなさい」
 ずんとドアのまえに立つ悪魔はどうにも自宅に戻らせてくれなさそうだ。
「わかったわかった。行けばいいんだろ」

 駅のグランドピアノの周りにギャラリーはいなかった。そりゃそうだ。三年前のあの日が特別だっただけで、路上ゲリラライブなんてのは無観客が基本。それに普通の人の思考ならこんなところで弾こうなんて思わないし。でも、悪魔は家に帰らせてくれないので恥ずかしいが仕方がない。
 椅子に座って、暗記した楽譜を頭の中で開く。
 まずはパッヘルベルのカノン。これは譜面を覚えていて、ギリ弾ける曲のひとつだ。中級者向けと言われるが、俺には少し難しい。
 まずは最初の音を左手の人差しで。いつも通りだ。
 それから両手になっていって、右の鍵盤数が増える。だがニ分くらい経った後だろうか、その後の怒涛のラッシュで途中から右手がついていかなくなる部分が来る。そこが苦手で何回も躓いた。最後までノーミスで行ったことは何十回も弾いてる中でも数えるほどしかない。どうしても意識が片方の方に行ってしまって、左手が留守になってしまう。
 が、今回は違った。
 まるで片手ずつ弾いているかのような、いや、それよりかはこう言おう。「まるで苦手な所を勝手に指がフォローしてくれているかのような」そんな感覚だった。意識的に動かしているわけではない。指輪をしている方の指が勝手に動いている。そう思えた。
 後半の動きが速くなる箇所、ここもいつもなら頭が回らないのだが今回は違った。
 ーーなんで出来るんだ?
 これが指輪の効果だとしたらなんてアイテムだろう。これさえあればどんな難曲でも弾けそうだ。六十年分の寿命? そんなの最初から死んだような人間にとっては足るものではない! 最高じゃないか!
 調子に乗った俺はカノンを弾き終わるともう一枚楽譜を捲る。自分が唯一褒められる記憶力をありがたく思ったのはこれが初めてだった。もしかしたらずっと弾きたかったエリーゼもいけるかもしれない! そう考えたら弾きたくなってしまって、もう一度指を置き直して鍵盤を叩いた。
 高揚した気持ちを抑えきれない。転調する部分だって指が追いつく。まるで夢を見ているようだ。
 だいぶ集中していたらしい、気づいた時にはギャラリーがちらほらと集まっていた。少し恥ずかしいと思いながら、俺は逃げるようにその場を立ち去った。
 そんな俺に悪魔はニヤニヤとして語りかける。
「わかっただろう? 今のキミはプロ並みの能力を持っている。指輪をつけてる時限定だが」
「……これって指輪をつけてる方だけが上手く動くとかあるのか?」
「勿論ないさ! ペダルを踏む足も指もどれもがキミの思い通りに動く」
 「本契約するかい?」悪魔はそう笑顔でバインダーを持ち出すと、ペンを俺に渡す。
「六十年分であれだけ弾ければ安いもんだ」
「ではここに署名を」
 俺は言われるがまま書類にサインする。これで正真正銘、この指輪は俺のものになった。
「ああそうだ。弊社はアフターサービスも売りなんだ。また明日、この時間に路上ライブをしてみてくれ。曲はなんでもいい」
「そうするとどうなる?」
「人生が変わる。まあ、試してみたほうが早い」
 次の日、俺は悪魔に言われた通りにもう一度エリーゼを弾いた。拍手をするギャラリー。当然だ。一度もミスをせずに弾けた。技術ならプロ顔負けかもしれない。
 その中にスーツの女性がいた。「音楽事務所の者です」とスカウトされた。詐欺? そんなのを疑えるほど冷静な訳がない。有頂天だった。それから運良く、動画投稿やイベントとして弾く場所を頂き、沢山お金が入ってきた。
それで満足な、はずだった。


「…………」
 何か、違う気がする。
 満足がいったのは最初の数ヶ月だけ。いくら上手く曲を奏でられても、いくら他人に褒められても、どこかでそれを冷たい目で見ている自分がいる。どうしてだろう。「ピアノが上手くなりたい」と言ったのは自分だろう? 叶ったのだから、もう満足なはずなのに。
 タバコを吸いながらそう悪魔にこぼす。
「それはさ」
 男はふわふわと宙に浮きながら言った。
「キミが一番わかってるんじゃないか?」
「俺が?」
「そう。今のキミは、楽譜を読めばなんでもプロ同等に弾ける。だけど、それって他人が弾いてるのとどう違うんだ?」
「……どう言う事だよ?」
「音ゲーって知ってるかい? 音楽のリズムに合わせてボタンを押していくゲームなんだが、キミがやってるのはまさにそれに近い」
 男はくるり、と意味もなく宙を回って楽しそうに笑った。
「キミがピアノで曲を弾いてるんじゃない。キミがピアノに曲を弾かされてるんだよ」
 そう言われて頭にカッと血が上った。
「んなわけねーだろ! だって、ピアノはただの道具だ、これが俺の力じゃないなんて……」
「指輪も道具だ。それにキミの才能は契約でカバーされたもの。実力ではない」
 ぐうの音も出なかった。チヤホヤされて忘れていた。これは俺の力ではないし、指輪を外せば俺は昔と同じく何も弾けない無能だ。
「……キミが求めているのはきっと、富でも名声でもないよ。それは今一番わかってるだろう? だったら本当に欲しかったものはなんなのか、絞り込めるんじゃないか?」
 ーー俺が一番欲しかったもの。
 一番初めに思い出すのは、三年前の路上ライブ。暗そうな男が自由に音を奏でる姿に「いいな」と思った。生きているか死んでいるかわからない様な生活に希望が差した様な感じがした。
 ーー俺も、あんなふうになりたい。
 何か一つでも全力で取り組んで、例え報われなくても誰かに笑われても頑張り続けて、自分がやりたい様に趣味を楽しむとか、そんな人生に憧れた。
 その対象はなんでもよかった。それがピアノだったのはきっと、あの男性が弾く曲に感動したのと、元々ピアノをやっていて、基礎はが出来ていただけにすぎない。でも、好きなように好きな曲を奏でられるのは、確かに楽しかった。
 ーーそうだ。
 ずっと忘れていた。強要なんてされたくない。昔は毎日の習い事が苦痛だった。でも、ピアノを前にするとそんな記憶は霧散して、レッスンじゃなくて空いてる時間に好きな曲を好きな風に弾くのが好きだった。
 俺は昔から変わっていない。
「なあ」
「ん?」
「ピアノって俺にとって、もう義務になったんかな」
 ずっとバイトばかりに明け暮れていて、趣味の一つだってあのライブに出会うまではなかった。悪魔と契約をして、仮初でも技術を手に入れた。ピアノが好きだから始めたのに、それがいつしか義務になって、あまり楽しくなくなってきた。
 ーーそれって、本当に俺が望んでいた事なのか?
「趣味が高じて義務になる場合も少なくはない。例えば趣味で書いていた小説が出版社の目にとまって小説家になった、とかな。でも大抵の人間は本業と折り合いをつけながら趣味を楽しんでいる。いつやめてもいい。楽しければ楽しいし、辛ければ距離を置けばいい」
 「お前は趣味を楽しめているのか?それともプロになりたいとか?」彼にそう聞かれて、俺は下を向いた。
 プロになりたかったわけじゃない。俺は。
「今の俺は……、なんも楽しくない」
 そうだ、楽しくないのだ。
 毎日キーボードに触っていた時の方が楽しかった。紡ぐ音全てがキラキラしてて、上手く出来なくても、悔しかったけれど今よりは全然マシだった。
 今は、どんな曲を弾いても楽しくない。
「ピアノが上手くなれば変わると思ってた。けど、なんか楽しもうとする気持ちまで奪われた気分だ」
 技術はプロと同等になった。だけどそれで何になる? 確かに仕事にはなるだろう。今の人気なら食うにはしばらく困らないかもしれない。
 でも、俺はそれを望んだわけがない。
「確かめてみればいいじゃないか。自分が本当は何を求めていたのか」
 男が指さしたのはあの日からベランダに放置されたままの袋に入ったキーボード。
 ーー俺が本当に望んでいた事は。
 ベランダから部屋のデスクの上に引き上げ、キーボードをコンセントに繋ぐ。ポリ袋越しとはいえ、外に晒されていたと言うのに三年を共に過ごした鍵盤は俺の声に応えて最初の一音を奏でる。
 俺は、悪魔から貰った指輪を外して、自分の楽器に向き合った。
 曲はドビュッシーの「月の光」一番最初の、きっかけになった曲。
 落ち着いた旋律が1LDKの部屋に響く。
 指輪が無いのだ。音はどこかぎこちなく、お世辞にも上手いとは言えない。所々無理矢理つなげた部分もある。事務所に所属してから色々な曲を何度も弾いたから指は追いつくけれど、こんなのアマチュアの技術以下だ。
 でも、それでよかった。
 音色を重ねるうちに確信を得た。
 俺は、プロになりたかったわけじゃない。
 本当は。あの男に憧れていたのだ。
 あんな風に何かに夢中になれたら、どれだけ幸せだろうかと。あんな風にピアノを楽しそうに、周りの人を夢中にさせるまでの実力があったら、何にもない俺の生活にも何か、色がつくんじゃないかと、そう思ったのだ。
「なあ」
「なんだい?」
 曲が終わり、俺は言葉だけで男に語りかける。
「指輪、もういらない。返すわ」
「返品は受け付けてないぜ」
「寿命を返せとは言ってねーよ。俺は、もう表舞台には立たない」
 数ヶ月で、色んな所に連れて行ってもらった。事務所には申し訳ないけども、もう決めた事だ。
「自分で弾いてて楽しくなくないなら、誰かを感動させる曲なんて弾けねえよな」
「……また夢のないフリーターに逆戻りか? 折角、地位も名誉も手に入る所なのに」
「いや、働く理由が出来たから就職する」
「キミが?」
 男は嘲笑して言った。
「ちゃんと仕事して、いい歳になったら防音ついてる部屋に住んでグランドピアノを買う。まあ実家帰れって話だけど。当分の目標として」
「ピアノは続けるのか。なら、余計指輪は必要だろう」
「だってそれつけてたらさ、上手く弾けた時の感動も、躓いた時の悔しさも、なんも無いじゃん。俺はそんなCDみたいに完璧な演奏よりも、辛くても自分が楽しい演奏がしたい」
 きっと、また壁にぶつかって、俺は辞めるなんて言って何度もキーボードを夜風に晒すかもしれない。だけど、直ぐに捨てられなかった様に、結局踏ん切りがつかなくて、またキーボードを組み立て始めるのだ。
 だって、ピアノを弾くのが好きだから。
 どうしようもなく、好きになってしまって。もう辞める事なんて出来なさそうだから。
「……オーケー。実はな、キミに言ってなかったことがあるんだ」
「言ってなかった事?」
「最初に言ったろう? オレは優しい営業マンだと。だから契約書にもちゃんと書いてある。『購入者以下乙が購入にかけた寿命の三分の一の期間以内に弊社の提供するサービスに満足がいかなければ、契約を取り消すことができる』キミの寿命はこれまた長くてね、この数ヶ月なんて三分の一には満たないんだ。だから、キミはノーリスクで返品することができる」
「返品は受け付けてないんじゃなかったのかよ」
そう皮肉混じりに言うと、男は答える。
「悪魔だから嘘くらいつく。それに、キミがただピアノの『飽きたから』辞めるんだったらそのまま人間じゃ読めない契約書の内容なんか教えずトンズラこいてた」
 でも違った。そう言って男はベランダの方に向けて踵を返す。開けていない戸が開き、風がカーテンを巻き込んだ。
「オレは希望に満ちた若者が好きなんだ。それも、『自分の弾いたピアノで影響を受けて始めた』なんて言っちゃう可愛い後輩なら尚更」
「は?」
「髪の毛を下ろすとイメージが変わるのは営業マンあるあるだな」
 そう言って男は自分の整えられたオールバックをくしゃくしゃにする。そうして現れたのはあの日の、ピアノを弾いていた暗そうな男そのものだった。
「な……!お前騙したな!?」
「言えって言われてなかった。いやあ、まさか悪魔の演奏の虜になる人間がいるなんて思わなかったよ。案外下界で遊ぶのもいいかもな」
「……趣味悪……」
「わはは。さて、じゃあオレは新しい顧客を探さなきゃな。また営業成績がビリになっちまう」
 男はベランダに一歩踏み出し、いつもより大きな翼を広げると、夜空へ羽ばたいた。くるりとこちらを向いて笑いかけて。
「キミが本当に自分と向き合った記念の、最初の演奏会へお呼びいただき光栄だったよ。次があればまた観に来よう」
 そう言い去って、ひらり、と彼は闇に溶けて行った。冷たい風が部屋に入ってくる。気がついたら指輪はキーボードの上から無くなっていて、全てが元に戻った様だった。
 ーーいや。
 今から始まるのか。
 人生に趣味は必要ない。生きているだけでいい。誰も責めない。でも、趣味があった方がうんざりするほど長い人生を少しは楽しく過ごすことができる。それだけの話だ。
 俺にとっての人生の華は、ピアノだったってだけ。
「……嫌いなはずだったのに、血は争えなかったな」
 上手く行かない時もある。誰にも評価されない時も、躓く時も、嫌になる時だってある。
 だけどそれ以上に、華のある人生は無いよりかは楽しい。
 空には男はもう居らず、冬の星々だけが輝いている。俺は窓を閉めて、もう一度鍵盤に向かい合う。
「寒い思いさせてごめんな」
 楽しい気持ちも辛い気持ちも、壊れるまできっとコイツと共にすることになるだろう。でも、雨が降った日も寒い日も耐えてくれた友人だ。きっと大丈夫。
 これから一緒に歩いていく。未だに脳裏に焼き付いているあの日の旋律と、思い出と一緒に。
 二度目の幕が降りるまで、ずっと。


「上手ですね」
 休日、習い事としているピアノ教室での発表会で自分の出番が終わり、一息ついている時、爽やかそうな男に声をかけられた。
「いやあ、まだ全然。十年もやってるのに逆に周りの小さい子の方が上手いと感じるレベルですよ」
「ま、若い子は伸びが早いですからねえ」
「はは、それはありますね。ここにいらっしゃるってことは貴方もピアノを? 誰かのご家族でしょうか?」
「ピアノは弾けますが……、今回は一般で。知人が出るというので休みを取って来たんです。海外から」
「海外から!? それは……大変ですね……」
「いやいや、久しぶりに弟子の顔が見れたのでチャラですよ」
 男はそう笑う。その笑顔はどこか見た覚えがあるものだった。確か、遠い昔。何処だっただろう? ピアノが弾ける様だから、この人はプロで、何処かの演奏会で見かけたのだろうか? 記憶力は良い方なのに、どうしても思い当たらない。
 俺は疑問をそのまま口に出す。
「もしかして何処かでお会いしたことあります? それともどこかの会場で見かけたのかな……?」
 だが、男は「それよりそろそろ戻る時間じゃないですか?」と、表情を変えずに笑うだけだった。
「ああ、そうだ。後輩の演奏が始まる……! すみません、私はここで!」
「ええ。お話しできてよかったです」
 俺は彼と別れると後輩の演奏を聴きに席へ駆けた。


「指輪が無くても、もう大丈夫じゃないか」
 男が満足そうにその場を去ったのは誰も知らない。

 人間は生きているだけで素晴らしい。無限の可能性を持っている。だけど、もっと素晴らしいのは、彼、彼女らは「希望」を持って、それに向かって突き進めること。だから、オレはこういう風に人間を観に来る度に思うのだ。
『人間は馬鹿で仕方ないが、何かに夢中になっている姿は評価できる』
 長く生きているオレには目標も夢もない。だから、気まぐれに弾いたピアノで憧れて始めたと言われた時、驚いたのだ。自分でも何かを他人に与えることが出来たのかと。
 それが、ああなるなら。やっぱり下界も悪くない。
「さて、次の客でも探すか」
 夢を持つ若者は沢山いる。相変わらず営業成績はビリだが気にしない。
 オレは、キラキラした希望を持った人間を愛しているから。
 外はいつかのクリスマスの様に澄んだ空。オレは会場から出ると、また次の顧客を探しに空気に溶けた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?