僕が一生尊敬し続ける人、それがばあちゃん。
僕が今までも、これからも一生尊敬し続ける人、それは死んじゃったばあちゃんである。
ばあちゃんは僕が高校生の時に亡くなった。70歳の誕生日に、自分の生まれた日に亡くなったミラクルな人。
風貌はとてもかわいい。150センチくらいの身長で背中も丸まってるからもっとちっちゃい。ぽちゃっとした体型。そしてチャームポイントはパンチパーマ。なぜかずっとパンチパーマ。「ばあちゃんパーマあてにいってくる」って会いに来てくれるのとセットでいつものルーティンになっていた。
そんなばあちゃんを僕は尊敬している。
いつでも、変わらずに、一緒にいてくれたこと。
どんなにそっけない態度をとっても、変わらず、待ち続けてくれたこと。
やんちゃをしても、周りに怒られるようなことがあっても、変わらず「僕自身」を受け止め続けてくれたこと。
特別なことをしてくれたわけではない。
でも、そのちっちゃな体で、誰よりもでっかくて暖かい心で、なんでもない日常の中で、在り方で全部を伝えてくれた。
どんな時でも、変わらずそこにでーんっと共に居続けてくれた人。
亡くなって20年経ってもまだ、僕の中の安全基地として支え続けてくれている。
僕が今こうしてコーチという仕事をしているのも、ばあちゃんがいてくれたから。僕のコーチはいつでもばあちゃんである。
絶対にジャッジも評価もしない。
理解しようってされた記憶もない。
ただ真っ直ぐそのままの「僕」と向き合い続けてくれた。
コーチとして、人として、一生追いつけない人。でも、一生かけてでも追い続けたい人。
その絶対の安全基地があったから、自分の思うがままに生きてこられたと思う。悩んだり、葛藤したりしてる自分も、それもいいじゃんって。
そんな価値観を育んでくれたのも、コーチとして、人としての在り方もばあちゃんがくれたギフトだと思う。
僕は唯一人生で後悔していることがある。
それは、ばあちゃんに面と向かってちゃんと「ありがとう。」を直接伝えられなかったこと。
でも、わかっている。
そんなこと言ってほしいなんて1mmも思わない人だということは。
たぶん、そんなことしたら照れちゃって聞いてくれない。
そんな可愛いばあちゃん。
だから僕はありがとうの代わりに、できるだけ多くの人にばあちゃんからもらった「共に在り続けること」を実践し続けたいと思う。
それが僕がコーチとして待つことを大事にしている超個人的な理由である。
なんだか書き進めた結果、これは天国のばあちゃんに送るラブレターになったみたい。
ばあちゃん大好きだよ。いつもありがとう。