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【短編小説】右から左

「祐輔、聞こえるか?」
 気付くと電子音は消え、秀一の声が響いている。
「ヘッドホンをはずして出てきていいぞ」
 
 言われるままにヘッドホンをフックに掛け、扉を押して外に出る。この装置、以前もどこかで体験した気がしたが、改めて外側から見て思い出した。聴力検査だ。音が聞こえた時に押すボタンがないだけで、ヘッドホンも、扉の重さも、全体の大きさもそっくりだ。

 ゆっくりと部屋の中を見回す。2024年2月のカレンダー、旅行して集めたという錆びた昭和の看板、アイドルグループのポスター……何もかも来た時と同じ秀一の部屋だ。

「成功だ、祐輔」
 秀一がわずかに興奮した声で言った。

  何もやりたいことがなく、就職活動もせず、なんとなく学生時代からやっていた引越しのアルバイトをやりながら過ごしている。友人たちがウイルスのせいで、就職活動に苦戦しているという話を聞く度に、自分の選択は正しかったように思えたが、徐々にみんなの進路が決まり出すと、急に自分だけ取り残されたような焦りと寂しさを感じていた。そんな時に、大学院に進んだ高校の同級生、太田秀一から、パラレルワールドに移動できる装置を作ったという連絡があったのだ。あまり信じられなかったが、今の自分の状況を考えると、試してみる価値はあると思った。

「ただし、どういう世界に行くという指定までは、まだできないんだ」
 秀一はそう言ったが、本当に移動できるなら、たとえそこがどんな世界であろうと、現状よりは悪くならない気がした。同じ間違いはしないはず。今の世界でだめなところを修正するために、別の世界に行くのだ。

電話を切ってすぐ、秀一の部屋を訪れた。

「ここが……パラレルワールド?」
「そうだ。気分はどうだ?」
 どうだと言われても、何の変化も感じないので、表現しようがない。
「パラレルワールドって、漢字が似てるようで違う形をしていたり、今までとは少し違う風景が広がってたりするはずが……前と何も変わってないような気がするんだけど」
「ハハハ、祐輔、それは小説や動画の見過ぎじゃないか?」
「じゃあ、本当にここが……?」
「そうだ。ここは正真正銘のパラレルワールドだ」
 からかわれているのか? この装置だって、昭和好きの秀一が手に入れたコレクションの一つにすぎないのではないか? そう思うと、いかにもそれっぽく見えてくる。そのうち「冗談だ」と白状するのかと思い、さらに尋ねる。
「ということは、秀一も以前の秀一じゃないのか?」
「俺は変わらない」
「なんだそれ?」
「俺は今回何の影響も受けてないから、元の俺のままだ」
 怪しさ全開だ。
「じゃあ、ここはどういうパラレルワールドなんだ? もうわかってるんだろ?」
 さっきは「指定できない」と言われたけど、移動したからには、既に判明しているはずだ。
 すると秀一は予想に反して、神妙な表情になった。
「いいか、ここは……祐輔が今日の第一歩を左足から踏み出した世界だ
「へっ?」
「元の世界では、祐輔の今日の第一歩は右足からだったんだ。それが左足からの世界に移動した」
 一気に体中の力が抜けた。期待していた僕が馬鹿だった。それならはっきり「パラレルワールドなんかあるわけないだろ」と言ってくれたほうがまだ良かった。一応形だけのお礼を言って、すぐに彼の家を出た。

「あーぁ、なんだよ、右足が左足? 退屈しのぎにもならない。時間の無駄だった」
 ひとり言をつぶやきながら携帯を見ると、母から着信が入っている。普段電話なんてしてこないのに、何事かと思い、すぐに折り返した。

「ああ、祐輔、成田病院から連絡があって、みーちゃん、無事治療が終わって明日退院できるって。引取りに行ける?」
「みー子がどうかした?」
 僕のその言葉で、母は黙ってしまった。み―子は子供の頃からうちにいる、十八歳という高齢の猫だ。少しでも元気がないと、自分のこと以上に心配になるほどかわいがっている。
「大丈夫? 祐輔……」
 少し間をおいて、不安そうな声がした。
「い、いや、治療、大変だったかなと思って」
 とっさにそう言うと、母は少し落ち着きを取り戻した様子で、
「しばらくギブスは取れないみたいだけど、命に別状はないって。もう、気を付けてよ。猫踏んじゃったじゃすまないからね」
 と答えた。みー子を……踏んだ? 誰が? 母の言い方からすると僕に違いない。いや、そんなはずはない。家を出る時、みー子は元気だったはずだ。そう思った瞬間、秀一の言葉が頭の中でフラッシュバックする。

『ここは、祐輔が今日の第一歩を左足から踏み出した世界だ』

 ま、まさか、そのせいでみー子の足を?
「嘘だろ?」
 僕はそのまま走って成田犬猫病院に向かった。中に入ると、いつもの看護師さんがいた。
「あれ? みーちゃんは今日一日当院で様子を見ると、先ほどお母さまにお伝えしましたが、お聞きになりませんでしたか?」
 母の言うことは本当だった。
「骨折ですか?」
「それほどひどくなかったからまだ良かったですけど、もう、気を付けてくださいね。朝忙しいのはわかりますけど」
「すみません……ありがとうございました」

 やっぱりそうだったのか! ここがパラレルワールド⁉ 呆然としながら病院を出て、とりあえず家に向かった。その時、
「すみません!」
 後ろから声を掛けられ、振り向く。僕と同じ歳ぐらいの女性だった。顔に見覚えはない。
「はい?」
「あのー、今朝私とぶつかった人ですよね。猫を抱えて」
 急いでみー子を病院に連れて行こうとしたため、この女性にぶつかっていたのか。きっとそうに違いない。見たところ大きな怪我はなさそうだが、すぐに謝った。
「すみませんでした」
 するとその女性は意外な反応をする。
「顔を上げてください。私、どうしてもお礼が言いたかったんです」
「えっ?」
 あっけにとられていると、彼女はさらに続けた。
「もしあの時、あなたがぶつかってくれなかったら、私、あの交差点で車にはねられていたんです」
 彼女が何を言っているのかわからなかった。僕がぶつからなかったからといって、事故に遭うとは限らない。普通に気を付けて歩いていれば、まずそんなことは起こらないだろう。
「何故そう言い切れるのですか?」
 そう言うと、彼女はうつむいてしまった。
「あっ、いや、僕はその……」
 僕自身混乱していたため、いきなりきつい言い方をしてしまったのかと焦る。すると彼女は顔を上げ、僕の目を真っすぐに見つめながら言った。

「信じてくれないかもしれませんが、この世界は私にとってのパラレルワールドなのです」
「ええっ、パラレルワールド⁉」
「頭がおかしいかと思いますよね。でも本当なんです。元の世界では、今朝、交通事故に遭いました。なんとか命は助かりましたが、元の体に戻るのは難しいと言われ……絶望の中、大学の同級生がパラレルワールドに移動できる装置を作ったと言っていたことを思い出したのです。すがる思いで彼にお願いしました。成功でした。動かなかった足で、自由に歩けるようになっていたのです。喜んで彼の家を飛び出して、部屋に帰ろうとしたら、ここであなたとぶつかりました」

そ、そ、それは……。 
「信じられないですよね。でも、あなたとぶつかったおかげで、ほら、体もこの通り」
 彼女は少し微笑みながら、背筋を伸ばしてみせた。まさか……そんなことが……。
「あのー、も、もしかして、その同級生って……太田秀一ですか?」
 今度は彼女が驚きの表情に変わる。
「なんで⁉ 彼を知ってるんですか⁉」
「やっぱり……実は僕もこの世界がパラレルワールドなんです。秀一は高校の同級生で、彼に頼んでこの世界に来ました」

 なんと、秀一は僕以外にもパラレルワールドへの移動を成功させていた。しかも、彼女にとって秀一は、重症を負ったのを助けた命の恩人なのだ。「そうだったんですか! 同じ体験をした人だったなんて、びっくりです! 人生ってほんの少しのことで、大きく変わるんですね」
「ほんの少しのこと?」
 その言葉が気になって、彼女に聞いてみた。

「ええ。ここは私が、
『今日の第一歩を右足ではなく、左足から踏み出した世界』
なのです」

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