Bump of Chicken

今僕は酒をこれでもかと流し込みながらR.I.Pを聴いてる。バンプの名曲だ。


そして聴きながらボロボロ泣いている。


Aメロの追憶の様に流れていく歌詞と、サビの思い出に対する愛への切実さに涙が止まらない。
今日聴いていて初めて気づいた事だが、一番では「尻尾の生えた内緒の友達」だったのが二番だと「尻尾のついた友達の墓」になっているのが、目の前の現実にある事実としての死への冷静な反応(死への非現実的な感覚)と解釈出来てしまい、(自分の経験を基に導きだされた答えの様な感じではあるけども)現実と非現実はすぐ側にあり、当たり前は「たまたま」側にあるのだという、その感覚に感極まってまた泣いた。


なんだか、聞くたびに泣きそうになるけれどもこの理由について考えたことは無かった。


それは、感情を揺さぶる音楽への冷静な分析は無粋であるという哲学と、文章だけの理解は音楽に対する侮辱ではないかという疑念や、他の要素を理解せず解釈を深めようとする狭小な行為は感度の低下を招くと感じてしまい、どうも抵抗があるからだ。
だから、曲の歌詞の深い文脈は考えない様にしている。歌詞の在るが儘、僕は脳裏に瞬間に生み出される風景と映像を受け止めて、一瞬に消えゆく全てを愛そうと思っている。
その瞬間に感じた何かを映像にして受け止めていきたい。


文脈での解釈なんぞ、何の意味もない。音楽、歌詞、歌い方、メロディライン、楽器、タイトルという包み紙、作詞作曲家の人生の背景。全てを理解して解釈する事は不可能だ。それをして分かった気になる事が曲への何よりの侮辱だと僕は感じるのだ。
だから、僕は受け取った映像を大事にするのだ。

「そこに誰がいたかっただろう。それが僕にもなり得ること。」

小さな運命のいたずらで僕らは出会っておらず、今の僕らは居ないかもしれない。そんな当たり前の事実に気付かれるのは、喪失を経験して「当たり前」の不安定さと尊さ、その不安定さを支える繊細な周囲にある全てを理解してからだろう。僕は、21歳の頃に初めて目の前の現実が変わりゆく物で、その事の受け止め方の大切さを理解した。そして、僕の無駄な丁寧さや感情の機微に対する向き合い方や考え方や思考回路は一般的でなく、今まで僕が周囲に対して演じて来た在り方が一般社会に迎合して培われて来た物であるという事実や、素のまま僕が生きられる世界はそう広くなく、理解者となる人は少ないと思うと、今僕の目の前にいる友人や恋人という理解者を大切にしたいとも思うのだった。

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