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本を読むのが、怖い


私は、本屋に行くと、少し、クラっとする。

一般的には、本屋に行くと尿意を催すと言われているが、私は尿意よりも、抑圧されたような緊張感に襲われて、若干「うっ」ってなる。

おそらく、本屋に集結している、ありとあらゆる未知の世界の広さ・深さに圧倒され、のみ込まれそうになる感覚を味わっているのだと思う。    そして、怖気ずく。


「読書は再読を前提とし、少ない本を、何度も読むべし。」

というのは、昔、大学の先生に教えてもらった。            最近になって、漸く、その意味がわかってきた。


私は本が好きで、本屋にも図書館にも足しげく通う方だ。        ただ、読んでも読んでも、片っ端から内容を忘れてしまう。

そして、ある時、内容を忘れる本には、共通点があることに気が付いた。

それは、読みながらなんの思考も必要としないハウツー本や情報書。   さくさく読めて、読みながら「はいはい」と、理解した気になっているような、ノウハウを集めた本である。

これらのたぐいの本の中身は、だいたいすぐに忘れる。         なんせ、そこには、なんの思考活動も、精神的な緊張感もないから。  「なるほど、そうだね」で、読了してしまうような本は、あいにく私の記憶には残らない。

そもそも、「すぐに理解できる=もう自分で体得している」わけで、   自分の経験知をあえて本で確認する必要もない。と、私は思う。 

それならば、どこに帰着するかわからないような、未知の世界へいざなってくれる本の方が、私はワクワクする。


だから、「なんかよくわからなくて、モヤっとする」本は、怖い。


なんせ、それは、今の自分には理解できない、他者の脳内を垣間見ることに他ならないわけで、他者の脳内が簡単に理解できてしまったら、もはや自分は正気じゃいられないでしょう。。

阿部公房とか、ニーチェとか、ドストエフスキーがあっさり理解できてしまったら、それこそ、たまらんぞ。気が狂うと思う。


以前、聞いた話だと、タモリさんが                 「7割わからないような本が、読む価値のある本だ」と、言ってたそうな。


本は、私にとって、偉大なる先人・他者の経験知や意識と接合するための媒介。迷宮もしくは底なし沼への入り口。


やっぱり、読書は怖い。

けれど、これからも、怖い本を読み続けていきたい。


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