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SNSをやめたら、枯れゆく木々の移ろいが観えるようになった


昨年の巣ごもり中に、Twitter, Instagramをやめてみた。

そもそも、そこまで熱心にSNSを活用している方ではなかったけれど、いよいよその弊害を感じて、腹をくくって、やめてみた。          遡ること2か月前の話だ。

今のところ、SNSを再開していないし、再開するつもりもない。


SNSの弊害に気付いたのは、自分のスマホの持ち上げ回数が一日100回を上回っていることを知った時。


スマホの持ち上げ回数とは、端末の画面をチェックする回数のことである。(iPhoneであれば、設定→スクリーンタイムから見ることができる)

もちろん、持ち上げ回数の中には、時間やカレンダーの予定を確認するなど、SNSの閲覧を目的としないスマホ画面のチェックも含まれる。    とはいえ、一日100回以上も、鳴らない電話に手をかけ、ついでにSNSなり過去のLINEのやりとりを見返している自分。


この行為は、「時間の無駄」ではないし、「不毛」でもない。      なぜなら、スマホいじりに生産性なんて求めないし、気軽に友人の近況を覗きながら時間を潰したって、別にいいじゃないか。


と、思いながらSNSを閲覧しているのであれば、まだマシだったかも。

私が一番、自分をおそろしく感じたのは、そんなことすら考えないまま、 ただ無意識に、スマホを一日100回以上チェックしている、という事実。

しかも、閲覧することで心地良い気分を味わっているならまだしも、人と比べて劣等感、欠如感を味わい、不必要に自信をも喪失しているということ。誰かの楽しそうな姿を見ては、自分は人生楽しめていないんじゃないかと詮無く自問自答し、また誰かの鮮やかな暮らしを見ては、自分には不似合いな暮らしだと、卑屈になって自分を納得させる。


他者の輝かしい栄光の日々にばかり晒された私の目は、ひどく傷めつけられ、自分にとっての大切なことが、見えなくなってしまった。      自分と他者の境界線はぼやけ、他者の信念や思想がわたしの心のスペースに流れ込んできて、私の気持ちを支配した。               


完全に、スマホに搾取されている!!


そもそも、スマホは道具であって、それを上手に活用して便利さを享受するのは、使用者の私のはず。SNSだって、自分に必要な情報を取捨選択し、豊かな生活の為に適切に利用してなんぼ。

が、しかし、私は嬉々としてスマホという道具に使われ、私の大切な時間や自信さえも奪われ、自己有用感すら徐々に失っていった。本末転倒。

そんなことなら、ボーっと虚空を眺めて、無意識を満喫する方がよっぽど自分にとっては豊かな時間である。


てなわけで、そこに気付いてしまった私は、もはや、そのように生きるしかない。即刻、SNSアプリを削除。


いやまじで、解放感、ハンパないっ!!!


SNSのない世界で、私は、一瞬一瞬、自分の行為に向き合うことにした。 次におこす行動を、自分に問い、選び、意志をもって、生きている。

「本読む?いや、今は読書の気分じゃないな」            「あ、散歩したいかも」                      「そうだ、あのメールの返信をしよう」               「気晴らしに祖母と話をしたいな」                  「お茶を入れて机に向かおう」                    「あぁ、眠い、昼寝をしよう・・・むにゃむにゃ」


今は、毎分毎秒、自分を、自分だけの人生を満たしている実感がある。  過去も未来もなくて、今、しかない。                 


SNSを卒業して思うこと。                      それは、自分がいかに、漫然と生きていたか。


自分の心が伝えてくる、その時その時の気持ちに耳を傾け、       今を 生ききる つもりで、過ごす。

それは、とても簡単なこと。                     それは、自分が自分のボスになって、自分の気持ちを尊重して生きること。

その大切さを逆説的に教えてくれたという意味で           SNSよ、、、ありがとう。

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