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可視化できないことが潰されていくオンライン時代に

9月になるととたんに秋の空気にかわった。あんなにうるさかったクマゼミの声も聞こえなくなると寂しくなる。

8月はお盆でお寺さんが忙しいため、お茶のお稽古はお休みだった。この機に、今なぜ茶道なのか?私なりに考えてみた。

最近コンスタントにやらせていただいているお仕事に、"オンライン"をテーマにしたwebメディアがある。

内容はそこまでテックテックしたものではなく、オンラインの根底にある企業や人の哲学などにフォーカスしているメディアだ。

ここで取材するのは、たとえばアプリと連動したスマートコーヒーメーカー。コーヒーを抽出する際の豆の分量や蒸らし時間やらをすべてアプリ上で計測・記録することで自分好みの味の再現性を高めてくれる、というものだ。またたとえば、定期的に自分好みのお花が届くサブサクサービス。既存の花の宅配サービスでは花の指定はほぼ不可能だった事前の"花の指定"を可能にした、画期的なサービスだ。お花はバランスや長さがあらかじめ調整されており、届いたら専用の花瓶に入れるだけでかわいく飾れるのが保証されてる。

などなど、早くて便利で、ロジカルで、どれも顧客が失敗しないように設計されたサービスばかりだ。

こんな価値観にどっぷり浸かったり頭でお稽古に行くもんだから、いつもそのギャップに意表をつかれる。お辞儀のときの頭の下げ具合、歩くときのスピード、袱紗さばき(袱紗使い)の際に手を上げる高さ、お茶碗や棗を拝見するときの持ち方…などなど、動きの正解が分かりづらい。どの行為も数値化・可視化されていないからだ。

「手の位置はこんな感じだったっけ…」と迷えば、「手首はもうちょっと下げて」などと先生からのツッコミがすかさず入って「ああ、そうか」と。でも、もう一度やればまた間違える。何センチで何%で何分で、という明確な決まりがないからだ。「このぐらいだよね」という感覚が基準なのだ。

だから、スマートで、クリアで、数値化されて、再現性の高いオンラインの世界観で挑むと「ううっ」と拒否反応めいたものがでることもある。特に、お稽古を始めたばかりの頃がそうだった。なぜ、もっとロジカルに分かりやすくしないのだろう。そうすればもっとたくさんの人が茶道を嗜むんじゃないか、と。でも、ある時から、もしかしたらこの違和感こそ大事なのかも?と思えてきたのだ。

分かりにくさ、をそのままに。それは、みずからの五感や記憶に頼ることであり、ふだんの生活のなかで使われずに鈍っていた機能を呼び覚ますことでもある。

そのことに気付いてからは、分かりにくさをそのまま受け止めることができるようになった。分かりにくい世界でしか、気付けないもの、育まれない感覚がきっとあるからだ。

「オンライン時代を生きる私たちは、体験や意思決定をテクノロジーから意識的に守る必要がある」

と、先のメディアで取材した経営者がそんなことを言っていてヒヤリとした。便利さの海に身を委ねてぷかぷか浮かんでいると、気づけばうっかり生きる豊かさをも手放していることになる、というこわ〜い話。

私はなぜ急にお茶に惹かれ、お稽古を始めたのか。その理由は自分でもよく分からず言語化できずにいたけれど、私の身体が、感覚が、必要としてた。腑に落ちた瞬間だった。

🍵私は茶道の初心者です。ここでは茶道の作法やハウツーではなく、私が日々のお稽古で感じたことを綴っていきます。自分の備忘録として、また茶道に興味のある人やこれから茶道を心得てみたい人の少しの参考になればと思います。もしも情報部分での誤りがあれば教えてください。みなさんと一緒に学びを深めていけたらと思います🙇‍♀️




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