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私が日本を出た理由

「ばかの大足 まぬけの小足 ちょうどいいのは〇〇の足」

今の人は、この言葉うたを知っているだろうか?

私の成長期は小4から小6にかけての2年間だった。
両親ともさほど身長が高い方ではないのだが、わたしは小6のはじめに両親の身長を追い越した。

今では165cmの小6女子はさほど珍しくないのかもしれない。
しかし30年前、わたしはクラスの平均身長より文字通り頭一つ飛び抜けていた。

その上、私は足も大きかった。
小6の時点で24.5cmあった。

この身長と足の大きさで、わたしはクラスの男子にたくさんからかわれた。
「デカはバカ」「でくのぼう」「でっけー」とか背が高いことを否定するような言葉を日常的に浴びていた。

足も大きかったので、冒頭の言葉うたの中で「バカの大足」と揶揄されているのはもちろんわたしのことだった。家族にもからかわれた。

今でこそ背の高いことは「かっこいい」と言われる時代になったけれど、当時は、女子は「かわいい」であって「かっこいい」は男子に使われる時代だった。

背が異様に高くて、足が大きいわたしは「かわいい」というカテゴリーにはいくら努力しても入ることはできなかったので「かわいい」を自分に求めるのは早い段階で諦めた。

さらに、今はどうかわからないけれど、当時は「背の順」という、わたしに「あぶれ者」というレッテルを貼り続けてくれるシステムがあった。

わたしは当然一番うしろで、当然のように背の低い順からペアを組んでいく仕組みの中で、組む相手がいないことは日常茶飯事だった。
特に前から3人ずつ組んでいったのにも関わらず、1で余った時なんかはサイアクだ。

そんなことが日常的に続くと、やがて背が高いことがコンプレックスとなり、少しでも背を縮めたいという思いで猫背気味に歩くことが癖となった。
「わざと猫背」なんてもったいないことをした!と思うのだけれど、当時は「背の高い女子」に自信を与えてくれるような世の中ではなかった。これは、いまでいう立派なBody Shamingといえよう。

こうして、外見的な特徴と「背の順」からの教訓:「常にあぶれ者であれ」というスタイルが身についてしまったせいか、このころから学校社会のハズレ者として、社会にうまく馴染めない自分というのを意識しはじめたのだと思う。

しかしその後、中学生になり、背が高いことが有利に働くことになる。
バレーボールとの出会いだ。
同時に身長も止まりだして、最終的に169cmで落ち着いた(そう、そんなに高くないのだが急成長期が多感な時期で運が悪かった)。

こうして「背が高いコンプレックス」は一旦収まりを見せたのだが、足はこの後もすくすく大きくなり続け、こちらは26.5cmまで伸び続けた。
おかげで「バカの大足」コンプレックスは解消することはなかった。

当時、日本にはわたしの26.5cmの足にあう「おしゃれ靴」というものが存在しなかったため、ブーツ、ヒール、ミュールといった女性的な履物は日本にいる間は無縁だったし、社会人時代は「会社に履いていける靴がない」というのが切実な悩みでもあった。

なので、右にならえ的な世の中で、そもそも自分にあう物が存在しないため、「個性的」を追い求めるほか、自分のアイデンティティを保つ方法がなかった

さて、話をタイトルに戻そう。
わたしは小さい時から「海外に住みたい」という意思がなぜだかとても強かった。「国際人になりたい」だとか耳障りのよい後付けの理由はたくさんあるけれど、本質的な「なぜ」は自分でもよくわからなかった。

そんななか、たまたま「冨永愛の劣等感…アジア人の葛藤とは?」というYouTubeを見ていて(富永愛さん大好き♡)、冨永愛さんと比べるのは非常におこがましいが、「背が高い女性であることで日本の中に居場所がないと感じた」という話に心臓を射抜かれたような衝撃が走った

もうおわかりだろうが、わたしも、体型的なコンプレックスと当時の社会感から潜在的に「自分は日本に合わない」を感じていたのだと思う。

さて、わたしが初めてカナダの地を踏んだのはもう22年前になる。

バンクーバーで靴屋に行ったときの感動を今でも覚えている。
わたしが日本では絶対に履けなかったスタイリッシュでおしゃれな靴、女性的なラインのヒールやサンダルなど、すべて選びたい放題だった。
それだけではない、わたしのさらに上のサイズまである。もちろん、背の高い女性なんてごまんといる。

ああ、わたしはここでは社会からはぶかれることはないのだ

そんな安堵感を感じたことを覚えている。

最近、「海外で暮らしたい」という若い子がやってきては、やはり合わないから帰る、と去っていくようなことに数回出くわした。

もちろん、言葉も文化も全く違う国に来て挫折したり、ホームシックになることは当然あるし、それは人生経験を豊かにしてくれる経験のひとつだ。

ただ、今までたくさんの「海外で暮らしたい」という日本人と出会った経験から、「海外に残る人」と「日本に帰る人」の違いがどこにあるのか、と言われたら、日本で生きてきて窮屈な思いをしたり、日本が無理だという思いが強い人ほど海外に残る傾向にあると思う
海外でのさまざまな居心地の悪さにも屈しないだけの理由がある人が残る。
わたしももちろんその中のひとりだ。

誤解しないでほしいのが海外で暮らしている人がえらいとかすごいとかそんな話ではない。

わたしの場合、背の順というシステムと、わたしのこの大きな足が、結果わたしを世界に運んでくれた、というだけの話だ。

日本には居場所がなくても、世界にはある。

そんなことを教えてくれたのだから、この26.5cmの大足はギフトだったのだ、そんなことにようやっと気がついた2022年の大晦日でした。

みなさん良いお年を。



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