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声をあげないと未来は変わらないと変わる途中で世界が嘆く

世界はこうやって変わっていくんだろうな


25年生きている。そのうち憶えている時間はどのくらいだろうか。半分にも満たないかもしれない。記憶は更新されていくから、いらないものから消えていく。けれどその一瞬一瞬に感じた全ては確かに生き続けている。

人類が産まれてどのくらい経ったのだろう。正確には、人類が今の人型を保ってから。言葉を交わし集落を作り生活を始めてから。紀元前から生き続ける人間の歴史は語られない物語を含めると、それはそれは膨大な量となるだろう。

考えるのが好きだ。知るのも好きだ。学生時代必要にもならない知識を着けていた。ヘンリーは何世までいるか、ゴシック建築のとんがった部分の名称、神話の英雄と現代におけるヒーローの違い。くだらない、本当にくだらない知識ばかり。

ただ結局の所研究ってそういうものだと思っている。誰かから見てくだらないと思う事柄を突き詰めるのを研究という。だから多分、もっと突き詰めれば研究になったのだろう。その先に順風な生活は待ち受けていなかったので止めたが。

原稿を書いて担当さんに送る。戻ってきて打ち合わせを行う。毎度回りくどい言い方が多いと言われ訂正してもらう。これ何でだろうと思ってたんだけどもしかすると読みふけるのが論文やレポート、偏った研究知識の文章だからなのではないかと気づいた。

そう、小説も漫画も論文も脚本も、全部書き方が違うのだ。

論文は簡潔に、けれどその結論に至るまでの道筋を雄弁に語る気質がある。それはnoteを書く時や小説を書く時も出ている。学術書や誰かのレポートを読みふけっていた学生時代がある。多分その影響なのではないか。

もう一つが海外文庫の翻訳版だ。数世紀前の作家が書いた作品ばっかり読んでいる。数十年も前に翻訳された文章を読んでいる。すると必然的に文体は難しくなる。回りに回りくどい言い方だらけだ。私はそれをある種美しいと感じているのだけれど、現代の小説には必要ない。歴史小説とかじゃない限りね。

そんなこんなで、私はここが回りくどい言い方だなとかが分からないので大体担当さんに消しといてくださいと頼む。読み手側の年齢に合わせた文章に崩してください。何回頼んだか分からない。

まぁ素のままで書くと地の文章が読書経験の少ない人にとって難しすぎるのである。崩さなきゃいけないのも分かっているので任せるけど、時折ここは崩したくなかった!なんて文章も崩さないと理解出来ないだろうと言われたりもして。

大変身勝手だがこの文章を理解出来るだけのスキルを身に着けてくれよと思ったりもする。エモの一言で終わらせないで心に沁み渡らせくれと。なんて普段の会話が擬音でしかない人間が書いてる時だけそれを求めるなんてお門違いだ。


世界を呆然と眺める癖がある。というより普段から現実に起きる出来事を一歩引いた立ち位置で見つめる人間だったりする。他人事と言われればそうかもしれない。でも、ただ眺めて何が起きているのかを冷静な視線で判断したいだけなのだろう。

例えば喧嘩が起きた時、一方の意見だけ聞けば相手が悪いと周囲は言う。でも双方の意見を聞いたら?最初から片方に肩入れしている人間は相手を糾弾するだろうがそうじゃない人はばらけるだろう。どっちが悪いって決めつけると思う。

多分だけど私は、ずっと昔から世界を一方通行で見たくないんだと思う。

一方通行で見られてきた人生だったから。勝手なイメージを抱かれ続けたから。それがどれほど窮屈なのかよく知っているから。どんな物事も一方通行で見たくないんだろう。


人は何故争いを止めないんですか?

そんな問いが見え隠れした時私は何でだろうと思う。でも多分人は一生争いを止められないんだろうなとも思う。世界規模でも目の前でも、大なり小なり争いが起きるのは人が人である証拠なんだって。

人間は太古の昔より争っては勝利を収め発展してきた生き物だから。ていうかどんな生物も優劣をつけたがるから。一匹だけ白い鳩がいれば仲間外れにするのと同じで、階級制度、男女差、人種、全部生物が生物であるがゆえに起きた生存本能全開の判断だ。

地球という一つの星で見れば中にいる人間なんて皆同じだと私は思う。肌の色が違うとか信仰する宗教が違うとか言っても、面の皮を剥げば中身は全部同じだ。たまに違う人もいるけれど基本同じである。

グロテスクな話になるがいがみ合っている人間の前に各々の仲間が皮を剥がれた状態で隣に並べられていたらどっちが仲間か分かるだろうか。骨だけになっていたら分かるか。白骨でどう判断しろって言うんだ。

争いを止められないのは怖いからだ。自分と違うものがすぐ傍にいて、今にも襲い掛かってきたらどうしようとか思うからだ。奴隷制度が存在していた時、奴隷から生まれた子供は死ぬまで奴隷だった。それも希望を持たせたくなかったから、反乱を押さえつけていたかったから。

怖かっただけに過ぎない。

隣に居る人の腹の内が分かったら多分迎撃はしないだろう。合わない人がいても全ての人間が分かり合うのではなく程よい距離感を保とうと考えられるなら剣よりペンは強くなる。

でもそれが出来ないのが人間で、いつまで経っても戦い勝つ事で優劣をつけたがるのが生物としての本能だ。

大きな規模の戦いではなく小さな世界でも戦いは起きている。容姿の贔屓、学業の成績順、運動は出来るか、そんな所。好きだった相手が誰かと付き合った時その恋人がマウントを取るのも正に生物としての勝利を感じている瞬間である。

それでも長い事戦い続けてきたから人は少しずつ変わっていった。大規模の争いを避けようとする考えが生まれ手を取り合う未来を思い描くようになった。未だそうなれない人もいるけど多分これは変換点になりうるのだろう。

肌の色でキャスティングを変える事が疑問視されているけれど、あと数十年もすればその概念もゆっくり消え何かしらの結末に辿り着くだろう。個人的には原作に忠実であれば問題ないんじゃない?って思う。原作を改変してまで変えるのは、原作へのリスペクトが無いと思えてしまうからだ。

適材適所という言葉が存在するようにその人だけにしか出来ない役目がある。過度な人間はどこにでもいて手に炎を持って争いを生み出す事が多いけど、どんな物語でさえ変わる前は必ず過度な人間が騒ぎを立てる。

これまでの時代だってそうだ。声を上げる事が出来るようになったのは良い事だと思う。だって出来なかった時間があったから。黙るしかない抑圧が存在したから。

まぁでも間違えてはいけないのである。最初から自分の存在がない物語に俺を出せ!!って言ったら馬鹿かお前はと言われるのと同じようなもので、それを一つ一つ聞いていたら物語は崩壊する。

そうしたいなら完全に新しい物語を生み出せばいいのだ。リスペクトのオマージュで行えばウィンウィンである。世界を壊す事と自我を出す事は=で繋がらない。

でもきっと、この論争も数十年後には落ち着くだろう。今は変わるために必要な時間を歩んでるだけ。声すらあげられなかった時代から声を上げて少しずつ反映されてきた瞬間。ただその反映が正しいと思われる形でないだけで、というより正しさを模索している段階だからってだけで。

世界はこうやってゆっくり変わっていくのだろう。それを観測者のように呆然と眺めながら今を生きている。

私がきちんと老後まで生きて寿命で死ねたなら。その時世界はどんな色彩を持っているだろうか。日本に四季はまだあるだろうか。あの海街は美しいままだろうか。月に手は届くだろうか。来世があるなら宇宙に生まれられるような環境になるだろうか。

先の事なんて分からないけれど10数年前に放送されていたマクロスFのライブシーンが今Vtuberの技術で再現し始めている所を見れば、月で死ねるのもそう遠くない未来なのかもしれない。


そしたら来世は超絶美少女に生まれ変わって好き勝手に生きて最高の恋人を捕まえてやろうと思いながらも、きっと何かを創る道に落ち着くんだろうと考えた。

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