「感情」は不合理?

私は感情的な人間だと思う。
ここでいう感情的な人間の定義は、喜怒哀楽など、感情に行動が大きく揺り動かされ、制御不可となることである。
例えば、身近の家族や恋人に自分の痛いことをつかれ、認めたくなく、逆切れしたり、不安にさらされたことへの怒りが、不安を埋めることではなく、相手を傷つけることへと目的をすり替えたりする。
もちろんその原理は、怒りながら、悲しみながら、理解していて、それでいて、自分の行動の制御が利かないとき、強く思う。

「感情がもっと掌に収まる小さいものだったらいいのに」

感情の世論

感情、特に怒りや悲しみについて、何だかだんだん疎まれつつあると思う。怒りや悲しみに動かされる人を見ると、煙たがったり、嘲りを見せる人が多くいる。もちろん私もその一人で、なぜ、そうなるかと考えると、「めんどくさい」に尽きる。
「めんどくさい」って、結局は、自分にとって都合がよくない、ということだと思う。都合がよくない、とは自分の時間がつぶされる、感情が揺り動かされる。
つまり、「めんどくさい」と感じるということは、ある程度、ジコチューに生きていることなのだろう。

もちろん自身も含めているため、これは自己批判も含むのだが、この「ジコチュー人間」は増えているのではないかと思う。
見たいことしか見たくない。
聞きたいことしか、聞きたくない。
自分に都合が悪くなったら、ぽい。

これは、自分にとっての都合悪い状況にさらされる機会がなくなってきているのも、一つの一因だろう。

先生は、親や社会の目を気にして生徒を𠮟れない。
上司もパワハラ、セクハラ敏感になり、いえることが限られていく。
社会の中でも、ポリコレだので、一つの発言でさえも上げ足を取られる。
そうやって、都合の悪いものはどんどんどんどんフィルターに引っ掛かり、なくなっていく。そうすると、都合の悪いものと遭遇したときに、ひどく弱くなる。

そういう人が、増えている人がおおい。

でも、感情ない人って、どうかな?

無感情人間

この人、感情が薄いなあ~っていう人を見ると、うらやましいと思う反面、なんだか不安になる。
感情がないドライ人間と関わっていると、自分のその人の中の存在感が薄く、寂しく感じる。これは私だけなのだろうか、わからないけど、
でもそういう人を見ると、やっぱり感情は人間関係のスパイスとして、あってほしいし、不便で不合理だけど、なくなるとそれはそれで違う気がする。

やっぱり、これは、自分で考え続けるしかない。
怒りをぶつけるとか、悲しみをぶつけるとか、人を無用に傷つけるとか、そうしないように、それでいて、感情を排除しようとか、0,100の選択肢、極端な選択肢を取らないためにも、
自分の感情と向き合って、0にならなくとも、なるべく、自分にも相手にも心地よい数字に持っていく。
その試行錯誤が必要なんだと思う。

試行錯誤、結局は何事もそれに尽きる。

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