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『斜陽』著:太宰治をよんで

『人間失格』以来、挑戦するのは2作目の太宰治。
私の中で、『人間失格』はあんまりしっくりこなく、今回もそれほど期待していなかった。しかし、その期待は大きく裏切られ、読中、読後に感嘆の声が止まらなかった。
太宰の、彼の、言葉に、思想に、共感、刺激、納得、というように強く心が揺らめいているのを感じた。
こんなに心がぐらぐらしたのは久々で、しばらく、整理がつかず、ぼーっと天井を眺めていた。
少し、時間がたって、その熱も冷めたので、『斜陽』を読んで考えたことをここにとりとめもなく綴っていこうと思う。

愛するということ

戦後、没落していく貴族の家庭に生まれた、主人公かず子。父親は他界し、弟の直治は麻薬中毒者で、ろうそくの今にも消えそうな炎のような人生を送っている。その母は、最期の貴婦人であり、非常に愛情深い人だ。
母は、かず子の日々を紡ぐ目的となり、直治の最後の生きる支えとなった。そんな母からくみ取れる、人を愛するとは、どういう時に愛を感じるのか。主に2つのことを感じた。

1つは、その人のありのままを受け入れること。
いいところも、どうしようもない欠点も、たとえ社会の全員が敵であろうとも、味方となり、自分の存在を受け入れてくれること。

そしてもう一つは、その人のためなら、たとえ間違っていると知っていても、人生を変えるという意志、そして、行動で示すこと。つまり自分の人生や理念に大きく支障を与えるような、わがままを聞くということだ。

その視点をもって自分の人生を振り返ってみた。
私は、片親で育った。比較的優等生だったと思う。手のかかる兄がいる中、自分は手のかからないように、というので無意識に生存戦略を取っていた。それゆえ、あまりわがままを言わなかった。やりたいことがあったら、自分で道を見つけ、自分で勝手に進んだ。そのせいか、あまり”愛”というのを人生の中に感じなかった。
(もちろん、母は私の好きなことをやらせてくれて、非常に感謝しているし、大好きだ。今振り返ったら随所に愛も見出すことができる。)

生きるということ

この小説の中から感じたことは、生きることとは、毎日起きて、ご飯を食べ、生をつなぎ、また寝ること。その生をつなぐために恋をすること。社会を変革すること。それ以外は虚構である。戦争も意味ありそうに見える事柄はほとんど空っぽだ。そして人生は、虚構なことを繰り返し、”終わり”を待つ。

文中にはこのような文章も出てきた。『学問とは、虚栄の別名である。人間が人間でなくなろうとする努力である。』
そうなのかもしれない。

ただ食っちゃねして、生をつないでいればいいだけの動物的な”人間”は、いつの間にか、複雑なことを”良し”とし、そっちに人生の目的がシフトし始める。それはある意味、”人間が人間でなくなろうとする努力”ともいえる。

このような考えを頭の片隅に入れておくことは、人生を楽観的にとらえることに役立つ。
私の場合、「あ、人生ってそんなもんだよなあ」って思うことができ、目の前にある、院試だろうが就活だろうが、なんかいい意味でどうでもよくなり、「まあ、なんとかなるか」と思い至ることができる。
だからこの考え方は好きだ。

また、私の中には、合理主義と利益主義が根底に潜んでいて、それがコンプレックスとなっている。そのコンプレックスから抜け出すような助けとなる考え方だと思う。
でも他人と同じように自分もあまり変えられないから、きっと慰めにしかならないけど。


おもしろかった。太宰にはまりそうな予感がした。読書熱が再燃した。いい出会いをした。

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