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朝井リョウ『正欲』を読んで

以前から気になっていた本であったが、読む機会を見失い、読めずにいた。そんな中、友人が手にしていて、そのさわりを読ませてくれた時、「これは、、、、いい!!」となってすぐブックオフへ向かい購入した。
最近は院試などもあり心にも時間にも余裕がなく、長編作品を手に取ることができずにいたが、久々に読了し、うーん、うーーーんとぐるぐる思考をめぐらすことができる素晴らしい作品に出合えた。友人に感謝したい。
これから、本の中に刺さった文章、考え方、それについて考えたことについて綴っていきたい。

あらすじ

複数人の視点から描かれるこの物語。
その中でメインのテーマとなるのは「性的指向」について。
この登場人物のいくつかの人々は「水」に対し、性的興奮を感じる。異性愛者が異性に興奮するように彼らは「水」に興奮する。しかし、その本能的な「性欲」が社会から認知されていないどころかはじき出されている。「キチガイ」と称され「迷惑」といわれ、窃盗という名目で逮捕され、社会から「お前は正常ルートから外れている、社会の『バク』なんだ」と除外されていく。
それは、どんな気持ちだろう?
本能的な欲求を否定されること、即ち、自らの存在を否定されること。ただ生きていくだけなのに、必要に干渉され、否定される。彼らにとって社会とはいつか「憎むべきもの」といや「憎まなければ自分を保てないもの」と変形していく。
だって、社会は自分勝手だ。
自分の見たいものしか受け入れないし、それに頑張って当てはまろうと日々いそしむ。そんな勝手な生業であるにも関わらず、それに当てはまらないものをあざけり、除外することで、自分は「正常だ」と束の間の安心を感じる。でもそんなの一時的でしかない。
そんな自分勝手に、巻き込まれ、冷笑、罵倒、嘲り、否定の対象となる。彼らの自分勝手に巻き込まれ続け、自分を否定し続けたら、自分はなくなってしまう。存在が、すり減ってすり減っていつの間にか消えてしまう。そんな彼らの処世術の一つが「憎む」ことなのだろう。
でも、その「憎む」ことにも疲れ始めた彼らは、つながりを求める。同じ「性的指向」を持った人と、「つながり」少しでも、生きてるだけで生きづらい世の中を生き抜こうと、お互いを利用し、求めあう。
そしてそれが、一つの事件へとつながる。

マジョリティ

「、、、マジョリティというのは何かしら信念がある集団ではないのだと感じる。マジョリティ側に生まれ落ちたゆえ自分自身と向き合う機会は少なく、ただ自分がマジョリティであるということが唯一のアイデンティティとなる。」
「そう考えると、特に信念がない人ほど"自分が正しいと思う形に他人を正そうとする行為"に行き着くというのは、むしろ自然の摂理なのかもしれない。」
「まとも側の住人は水に似ている。温度も形状も何もかも、外からの刺激にあまりに順応に反応する存在。そちら側に生まれると、どんな刺激の中でも自分を保つ能力を鍛えるより、まともな自分に何かしらの影響を与え得るものを全て遠ざけてしまおうという考えになるのかもしれない。」
「そのまともには輪郭すらないのに。」

こうも鋭く"現代のマジョリティ像"を描写している筆者に感服する。
自分も当てはまるが、現代人は「こだわりが少ない」もしくは少なく演出しているように感じる。初対面の人には真っ白な自分を演出し、少しずつ少しずつ自分の色を出していく、、、そうできればいいが、集団、「マジョリティ」という枠に収まったとたん、どうやってそのマジョリティの「無害」でい続けようか、、と考える節が自分にある。
自分でも驚くことが、ひどく自然にそれを実行していることだ。なんの葛藤もなく、マジョリティに迎合することが当然のようにしてしまう。
これが外生的な要因を優先してしまう自らの特徴を感じる。
そういう人は現代で多く、またそれが推奨されているように感じる。
それをしなくてはあたかも失礼のような、人としてチョットオカシイよねと噂されてしまうほどの。

そういう人がマイノリティを排除していく。彼らの「正欲」のもとで。

なんと厄介な欲なんだろう。
自らの都合のいい正義を振りかざし、自らに都合のいい世界にしていく。人間とはいかに都合がいい存在か、改めて思い知る。

「枠」

この文章の中でも記述されていたと思われるが、人は何かを枠に入れて考えた瞬間、思考を放棄する。
例えば人に対して。この小説の例でいうと、「人と違う性的指向」という枠に考えた瞬間思い浮かぶのは、同性愛者。「水」に対して湧き上がる「性欲」というのは考慮されない。
なぜ人々は枠に入れて物事を考えだすのか、
それは思考をショートカットして、簡単に簡単にしたいからだろう。それが「楽」だからだろう。
年を重ねるにつれ感じることは、年を重ねれば重ねるほど、経験値としての「枠」がどんどん積み重なっていく。そしてそれは思考を楽に楽にとし、個別の事象を「枠」にあてはめ満足し終わってしまう。その傾向は自分にも他人にも感じる。
そしてその自分勝手な「枠」が「正欲」となり、自身や他者を傷つける。

全く同じ思考、感情、人、事象はない。
それは意識していないとひゅ~っと頭の中から飛んで行ってしまう。個別の事象一つ一つにあたる重要性が、損なわれていく。

さいごに

この小説を読み、自らに危機感を感じた。マジョリティであることに安寧を覚えてしまう、自分。年を重ね「枠」と「正欲」が積もっていく自分。ポリコレというような「枠」がますます「正欲」を振りかざすこの世の中。人と無駄につながりやすくなったり、情報が無駄にあふれているこの世の中。
自主的に情報を遮断すること、自ら未知のものへと飛び込んでいくこと、そういうことがある程度必要となってくる、と感じた。
おもしろい、とても、おもしろい作品。
そして、世の中に、自分にたいする絶望が深まる作品。
読んでよかった。

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