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『信じるって罪じゃないですか』

( 前回からの続き )

なんで急に思い出したのか
突然腑に落ちたんですが

「信じる」の対義語って「疑う」ですよね。



《 vol.2 》


物事の大半が二極性をもっていて
下手したらこの世の全ては " 対 " になる関係をもっているかもしれませんが

光あれば闇があり
太陽あれば月があり
有機物があれば無機物があり


よく言う『陰陽バランス』ですね。

見方を変えると
ある一つの物事が生まれるということは

同時に片側の対になる何かも発生している
ということです。

「信じる」ということは同時に
「疑う」ということもセットになっている。

つまり、初めから疑っている前提で
信じるという行為は成り立っていた

ということは
絶対の存在とされている "神" に対して

信じる、ということはつまり疑う
それはなんて罪深いことなんだと

そういう考えに至ったわけです。

別に神様じゃなくてもいいんですよ。
ただ、誰に対しても、何に対しても

" 信じよう " と思う気持ち
「あなたを信じてる!」とか

とても前向きなようで
輝かしくも思えるんですが

どこか不思議と怪しさというか
暗がりが見え隠れする、不安を拭えない

僕は、そんな気がするんです。

それがまさしく
『信じることは罪』なんだと。

表面上はキレイなんです
「信じてる」と言っている自分や
その姿、発せられた言葉は美しいんですが

内面ではどうでしょう
キレイなのは上っ面だけで
心の中はそうじゃないんじゃないでしょうか。

あなたの本当の気持ちは
とても矛盾した揺らぎをみせているはず。



人は、信じたいんですよきっと。
みんな信じたいんです。

でも既に信じられない気持ちがあるから
信じたいと思うものなんです。

だから祈るんです。
信じたいから祈るんです。


どうでしょう
変な気分になってきませんか?笑


どうしてみんな神社参拝に行くんでしょう
合格祈願、厄祓い、ご祈祷。

理想の未来がくると心の底では
信頼できないから祈るんですよね。

信じたいから祈るんです。
信じてないから祈るんです。
祈るから信じてるんです。
祈るから信じてないんです。

ずっと同時発生なんですよ。
だから罪なんですよ。変ですよね。

でも僕はそういうのっておもしろいなって思います。
人間って、歪で、矛盾してて、複雑で、おもしろいなって。


奇しくも
「信じる」という字は
「人が言う」と書いて信じるし

「祈る」という字は
「意宣る」という語源からきていて

「自身の意思や意図を宣言する」
と書いて祈る。




ご愛読頂きありがとうございました。
気まぐれに投稿してますので
しばらくしてまた覗いてくださると嬉しいです。


愛を籠めて
音旅 Yuhta


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