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スッキリ、あっさりの「共同」生活:フィラデルフィア

 20代の頃、リブの仲間などで「歳とったら、どうせわたし達みたいに好き勝手なことばっかりする人間は、たぶん夫と呼べるような人もいない、世話してくれる子どもたちもないだろうから、一緒に住もうよ。でもわがままいっぱいの我々じゃ、同じアパートではまず続かないだろうから、アパートは別々にして、同じビルで好きなことしながら楽しくくらそう。。。」そんなことをいい合ったことを覚えている。

実際そうしている昔のリブ仲間もいるのだろうか。

思えば、今、自分は、そんなところに住んでいるのに気がついた。退職して10年、クエーカーの人たちが中心になって、元気なうちは、いやできたら死ぬまで、このザワザワとした街中で生活し続けたいという思いでできたコンドに住んでいる。リビングルーム風な部屋や運動やちょっとした集まりもできる部屋は、グループに入っている人たちでローンを分け合ってもち、貸し借り自由な図書もあり、お茶も飲め、週に一度は食事も一緒にする。

その一緒の食事なのだが、自分は疲れている日など、うちでほっとしたいと思っても、断っちゃワルイかなとか、どう言い訳しようとか、ずいぶんと気を使って、結局疲れをおして参加したりしていたのだが、あれっと思ったら、そんなことをしている人は自分以外いないのに気がついた。

そのあっさりぶりに感心して見習いたいのだが、今でも、やはり「勝手に」参加しないときは、うちでゴロッと休んでいても、まだどこかでほんのちょっと心苦しい自分がいるのに気がつく。

このグループの間で、「ゆうほがまた『わるいね。ごめん』と言ってる」と笑われるのだが、そのあたたかい笑い方で、こちらの『I’m sorry』は日本人のまわりの人の心を さっする気持ちから出ているというのをわかってもらえたこらしいとがうかがえる。

「三つ子の たましい百まで」はもって生まれた性格をさすらしい。その後30まで住んだ国で つちかわれた感性というのもやっかいなもので、異国にその1.5倍住んで行動は切りかえられても、底を流れる気持ちを完全に取りかえることなどできるはずはない。。。そう思う今日このごろだ。



つか子と「あの人」:プロローグ1〜6

つか子と「あの人」 (創作大賞2024恋愛小説部門応募作品) お読みくだされば、大変嬉しく思います。ありがとうございます。

エピローグ: つか子と「あの人」 (つか子と「あの人」 の続きです。)

新作品: 『みじか〜い出会い・三つの思い出』 『夫の質問:タンスの底』  『外せないお面』 『来世の[ない]クエーカーのはなし』



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