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『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』刊行記念トークイベントより①

本記事は、2022年10月3日に、ジュンク堂書店池袋本店の主催で行われたオンライン・トークイベントの内容をもとにしています。登壇者は、清水晶子さん、ハン・トンヒョンさん、飯野由里子さん、聞き手は有斐閣編集部・四竈佑介です。なお、本鼎談を抜粋した内容を有斐閣のPR誌『書斎の窓』に掲載しています。あわせてごらんください。

企画の経緯と背景

――本書を1から企画したのは2016年で、アメリカ大統領選を控える頃でした。ドナルド・トランプが当選する前で、いわゆる「トランプ旋風」なんていう言葉もありましたが、言論状況がとても荒れて、大統領になる前のトランプが否定的な煽り文句としてしきりに使った言葉がポリティカル・コレクトネス(以下、PC)だったんですね。日本国内でも新聞をはじめこの言葉が取り上げられる機会が散見されました。

ハン 「PC疲れ」を利用してトランプが勢力を伸ばしている、とか。

――本のなかでも、言葉がねじれたかたちで輸入されたのが、日本特有の現象なんじゃないかと、話題になりましたよね。またこの本にも書かれているようにトランプ以前、そもそも1991年にブッシュ大統領がミシガン大学で演説をしたとき、はじめてPCという言葉が用いられたことが、ブームの大きなきっかけとなった。それが四半世紀を経て反復されたような状況が企画当時にあったわけです。日本国内では、ヘイトスピーチについての議論が活発になっていて、2016年には大阪市のいわゆるヘイトスピーチ条例が施行されたり、企画を進めていくなかでは2019年には「あいトリ」の「表現の不自由展」の問題が起こったり、定期的に表現と差別や社会構造の問題が話題になっていたと思います。

ハン 最初にお話をいただいたときのことを思い返すと、日本で「PC疲れ」と言われることにすごくムカついていました。あと「言いたいことも言えなくなった」みたいな言い方にも。本のなかでも議論したとおり、PCという言葉自体がそもそも揶揄から始まった言葉だから、ポジティブに捉えるのが難しい。そのうえ「PC疲れ」みたいな言葉だけが流行っちゃうからわかりにくくて反論がしにくいし、反論に使えるまともな類書もなかった。この企画に参加して書くモチベーションは、そこにあったということを思い出しました。

飯野 たしかに、初回の打ち合わせで、日本はPCが浸透しているような状況ではまったくないのに、「やる前から疲れるなよ」という話をしましたね。私はあの当時、SNSとかYahoo!のコメントとかを見ていなかったので、よく知らなかったけども、清水さんから、日本ではパブリックフォーラムにおける差別発言を規制するルールがちゃんと定まっておらず、むしろパブリックな場で本音や率直な意見を言うことがあたかも「かっこいいこと」のように受け取られている、という問題意識が共有されました。そのうえで、諸外国のような、パブリックな場では差別をなくしていく方向で発言をすべきっていうコンセンサス自体が日本にはない、という話をしたのをよく覚えています。
 その流れで、PCは、むしろマジョリティにとって必要なもの、というのは当初の段階で3人の共通認識としてあったと思います。同時に、だからといって「PCを押さえておかないと損するよ」みたいなメッセージだけを出してもあんまり意味がない、とも。ですから、PCっていうものをどういうものとしてそれぞれが捉えて、どう扱っていくのかっていうところに、難しさを感じていました。

清水 ハンさんも本で書かれているように、本当にその繰り返しで、差別に対応できる状況づくりが全然できていないのに、対応するほうが行き過ぎたのでみんな大変になってしまった、みたいな言説だけが出てくる。本当にいい加減にしろ、というところは3人で共有していましたね。ほかにも、女性の権利とかマイノリティの権利の話をしようとすると、「ディズニーなの?」みたいな反応をされる。トランプが大統領になる頃の言論を承けて、そんな危機感もありました。だから、そうじゃないかたちでPCというものをきちんと話せる土台がほしいというのは、最初に話したときに共有したと思います。
 他方で、これが3人の立ち位置が違ったところでもあるんですけど、私はやっぱりPCに対してはすごく警戒感もある。もちろん「PCで言いたいことも言えなくなっちゃうんだ」っていう警戒感ではなく、フェミニズムやクィア系のなかで伝統的にあるタイプの警戒感です。そしてその警戒感について語れるスペースがどんどん小さくなっていく実感もある。つまり、フェミニズムや女性の権利だとか、マイノリティの権利の話をしようと思ったら、PC擁護であることが期待される。それに少しでも反対したりずれたりしたら、途端に今度はセクシズムや異性愛主義だったり、あるいはホモフォビアだったり、そちらの側なのね、ということになってしまう。二者択一に無理矢理させられてしまう状況に対する苛立ちみたいなものがすごくある。ですから、PCには限定的に使えるところがあるけれども、でもPCを守ったらそれで私たちが満足するみたいな、そういう話ではないっていうところは、前提として共有してほしい、とすごく考えていたんですよね。
 たとえば、PC(政治的に正しい)かもしれないけどこういうところは問題だよねとか、逆に道徳的にこれは引っかかるっていう人はいるかもしれないけれども、政治的にはそんなに問題にはならない、というようなことが、特に性的な表現のなかではある。そうした話をできなくさせられていく感じが、個人的にはすごくありました。だから、もしPCの話をするなら、そこの話もしておきたいな、と。

PCをどのような問題として扱うか

飯野 もともと1980年代に英米の大学の文脈でPCというタームが登場してきたときには、表現というよりも制度に関わる問題だったということは清水さんの章で触れられていますよ。具体的には大学のカリキュラムの組み直しや選抜方法など、いわゆるアファーマティブ・アクションに関わるようなものとしてPCが捉えられていて、それへの反発が起こった、と。けれども、日本で1990年代初頭にはじめてPCの問題がメディアで取り上げられたときには、制度の問題に触れているものもあったものの、すでに「言葉狩り」みたいな表現の問題に矮小化されたりしたし、アメリカの大学特有の現象、あるいは脱冷戦時代における保守派の新たな敵としてPCがある、みたいな紹介のされ方をしていました。
 2010年代の日本(アメリカでもそうかもしれないけど)では、PCっていうのは制度の問題よりは表現とか表象のレベルの問題になっていて、しかもその背景には資本主義による要請とかロジックが深く関わっている、それがたとえばディズニー作品のなかに見られる、といった整理をしたことを覚えています。

ハン 力点の違いになるでしょうか。私は、たしかに表現の問題に矮小化されちゃった面があるにしろ、日本の状況のなかで表現の問題が(あるいは表現の問題も)やっぱり大事だと思っています。もちろん制度的なことと並行してなんですけども、私の章ではわりと表現の問題として書いています。商業主義的なPCへの批判も「PC疲れ」と一緒で、まだその成果も出ていないのに弊害ばかり語られて、PCが商業にうまく活用されたことも少ないだろうっていうか。もうちょっとPCを活用できる部分の余地があると思うし、マイノリティからのニーズもあるだろうし、表現の問題そのものではないかもしれないけども、子どもたちをはじめ表現によって救われる人がやっぱり存在すると思う。その意味でも、表現自体をとても大事なものだと思っています。だから、二項対立的に、正しさを追求するとつまらなくなるみたいな議論はすごくバカバカしいと思っていて、その辺を整理したいという思いも強かったんですよね。

清水 いま、まさに同じことを言おうと思っていました。私自身が、いま所属している研究室も表象文化論ですし、もともと文字表現を扱う分野の人間なので、なんていうか、表現は、個人的にはすごく大事なものなんです。ただ、私にとって表現っていうのは、制度の内部の話ではないけど、でも制度と不可分で、制度というものと一切の関わりを持たない表現というのは、ありえない。もちろん、表現が制度に完全に規定されるというわけではないですよ。でも制度と不可分ではない表現もたぶんないと思っているから、表現の力っていうものを考えるときには、やっぱり制度との関係というのは一つとても大きい要素になる。
 なので、逆に言うと、表現の話をするのなら、ちゃんと表現の話をしてほしい、という感じはあるんです。たとえば、一方にPC的な政治的な話、もう一方に表現、みたいな対立ですよね、それこそPC疲れとかPC批判みたいな文脈を作りたい人たちはその2つを対立項として設定しようという狙いがあると思うんです。けれども実際には、批評の分野でもアカデミアでも、表現の話と政治の話というのは、もう延々と議論されてきていて蓄積もものすごくあって、あっちかこっちかみたいな話ではないのはみんなわかっている。にもかかわらず、どうしてPC関係になると一気に二項対立みたいなところに引き戻されるのか。それは、やっぱりつまらないですよね。
 そのつまらなさは、政治の話をするから、PCを重視するから表現がつまらない、ということではない。「あっちか、こっちか」みたいにするから面白くないんです。政治が表現といかに絡んでいるかみたいな話って、私としては表現に関する一番刺激的なところでもある。だから、なぜその話をしないのか!そこを話そう!ぐらいの気持ちがあるんです。
 だから、ハンさんがおっしゃるように、やっぱり表現に関して議論する人が、ちゃんと議論をしていけるようにするためにも、たとえばPCって言われるときに何が問題になっているのかとか、あるいは表現の自由という問題と、たとえば差別とか人権の問題をどういうふうに私たちは関わらせていくのかとか、そういうことをもうちょっとちゃんと表現にも敬意を持って考えようよ、みたいな感触はずっと持っているんですよね。
 反PCを持ち出す人の話を聞いていると、「この人たちって、じつは表現なんてどうでもいいと思っているのでは?」みたいな気がすることが時々あるんです。でも、表現というのはやっぱりすごい力があるもので、だからこそその政治的な効果も長いこと考えられ議論されてきた。それをちゃんと踏まえて楽しもうよ、みたいな気分はあるんです。

議論が深まる経路

飯野 その意味では、私には戸惑った部分がありました。清水さんは昔からの知り合いですし、ハンさんはSNSを見て表現に対するリスペクトがすごくある人だろうなと感じ取っていたから、2人がこの企画に参加するのはとてもフィットすると思ったんです。でも、私の名前が上がったのはかなり意外で、何を書けばいいんだろうって最初は思いました。

――私からは、著作やSNS等での発言をふまえて、まず清水さんとハンさんにほぼ同時期に相談しました。清水さんの研究室でお話をするうち、飯野さんのお名前が挙がりました。すでに編集部では『合理的配慮』の企画でお世話になっていたし、おもしろくなりそうだと直観を持ちました。進行しながらいい組み合わせになったと確信したんですけど。

飯野 私自身は、けっこう最後まで自分だけずれているかなって思いながら書いていました。

ハン そんなことないですよ。

飯野 最初の頃はけっこう、障害をめぐる表現や差別語も含めて、触れてくれませんかみたいな要望があったんですけど、私は全然そういうのに詳しくないんです。あともう一つ、最初に編集部の問題意識というか関心をもとに、「実用書みたいなものにしたい」と言われた記憶があります。そのとき、「実用書ってどういうイメージですか?」という質問を清水さんがして、たとえば「最低限これ言っちゃダメみたいな具体例ですか? とりあえずの正解みたいなのを羅列すればいいんですか? そういうガイドライン的なものでしょうか?」みたいな話もしましたね。

――たしかにそのようなことを考えていました。でも、話を深めていただくうちに、ガイドライン的なものは、弊害の方が大きいという話になりましたね。私も議論を伺いながらそう思うようになりました。

飯野 私はそのときに話しながら、「それは私には書けないわ」って直観的に思っていて、違う方向に進んだらいいなと思っていたんです。
 それからさらに話していくうちに、もうすでに話にも出ましたけど、PCってやっぱり公共空間において求められるある種の「建前」みたいなもので、「建前だけでもせめて守ろうよ」っていう類いのものなのに、「それさえ守ればそれでいい」みたいなメッセージを出してしまうと、やっぱりそれは私たちが考えていることとは大きく異なってしまう。だから、もしPCについて書くのなら、PCを考えるときにはこういう点は押さえておこうという方向性や複数の軸を示せるといいよねっていうことになりました。それぞれ違った立場を取りつつも、「構造の問題が大事だよね」とか、さっき言った「パブリックな場でのコンセンサスをちゃんと持ちましょう。まずはそこからですよ」、といった方向性を、話し合いのなかで詰めていった。それでようやく、私もそれなら書けるかな、という感覚を持てたと思います。

清水 難しさの一因は、日本語圏でのPCの使われ方の幅にあるとも思うんです。つまり、制度の話じゃなくて表現の話だけにすごく特化しているというところが一面でありつつ、逆に、これがPCの話なのかよくわからないけど、という場面もある。それこそ飯野さんが本のなかで触れた公共交通機関の話は、ネット上では「PCの行き過ぎ」みたいなかたちで、すごく叩かれたり、炎上したりしたということだから、それはPCという言葉で表すべき問題でもあったと思うんですよね。
 飯野さんが依頼を引き受けて悩まれたときは、まだそこまでじゃなかったかもしれないんですけど、現実で見ると、飯野さんが書いてらっしゃるようなことが、少なくともネット空間で「ポリコレ」という言葉のもとで語られる問題とわりと合致していたっていうところはあるかなと思っているんです。

ハン もともと、やはり揶揄する言葉として生まれたようなところがあるので、その意味では正しく継承されているとも言えるんですが、でもだからこそ、むしろ攻撃する側にとってもしかしたら使い勝手のいい言葉でもあるのかもしれません。逆に、そうじゃない立場にとってはむしろちょっと使い勝手が悪いというか、どう扱っていいかが難しい、戸惑う対象ではありますよね。本を作る過程でも、戸惑いだったり、3人のなかのズレみたいなものとか、捉えどころのないものがありつつ、それでも本にしよう、言葉にしようとしてきた5年間だったと思っています。
 私はむしろ本が出るぐらいの時期とか、出てからの方がずっと不安でした。書いた人がそんなことを言うのもなんなんですが、どう思われるか、あまり自信がなくて。このタイトルで、この本を手に取った方が満足するのかな、と正直思っていました。間違ったことを書いているとは思わないですけど、やっていくうちにわからなくなる部分もありました。

②に続く


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