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『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』刊行記念トークイベントより③

『ポリどこ』と『「社会」を扱う新たなモード』

清水 ちょっと違う話になりますけどいいでしょうか。途中でちょっと話題にした表現の話と関わるんですけど、飯野さんに聞いてみたかったことがあります。『「社会」を扱う新たなモード』という本を最近出されていますよね。私自身、障害の社会モデルの話を最初に聞いて勉強したのが飯野さん経由だし、飯野さんから教わった英語圏の文献を読んで勉強しているので、私としては、この2冊で飯野さんが書いてらっしゃることは、読んで何の齟齬もなく、なめらかにつながりました。だけど、飯野さん的には、社会モデルの話と、今回の「ポリコレ」っていうかたちで書くことというのは、ちょっとずれているんですか?

飯野 少なくとも当初は、ずれていた部分があると思います。でも、この『ポリどこ』と『「社会」を扱う新たなモード』は、ほぼ同時期に作ってるんですよ。なので、私の中でも、この2つの本で書いた論文の間に、齟齬はないかなと思っています。

ハン この2冊、雰囲気もなんとなく似ていますよね。

清水 じゃあ、そこがなめらかなのは、私が勝手になめらかにしているわけじゃなくて。

飯野 この5年間、いろいろ試行錯誤して、いま書けるのはここまでだな、というふうに考えたことを書いたって感じです。『ポリどこ』のほうが、もう一歩踏み込んではいるかもしれない。

ハン むしろ、そっか。

――よりベーシックな話が知りたいのであれば、『「社会」を扱う新たなモード』を、と?

飯野 ベーシックというか、ベーシックでありつつ、応用編でもあるのかなと思います。それぞれの章に関して。

清水 そちらも、けっこう攻めている本ですよね。

飯野 清水さんはそう言ってくれますよね。ありがとうございます。どの辺が攻めているのかなっていうのは、聞いてみたかったところです。

清水 確信を持っているというより、なんとなく、攻めているんじゃないかなと思いながら拝読していたというか。『ポリどこ』の飯野さんの章もそうですけど、障害者運動とか障害学とか、あるいはもうちょっと広く障害っていうものに関わる人たち、支援者みたいな人たちに対しても、もちろん全部がダメとかいうんじゃないけど、こういう方向に行ったらまずいよね、みたいなことをわりと書くじゃないですか。内部批判的なところがあって、そこはけっこう攻めているなっていうか。それをやってきている人だけど、でも、やると逆に叩かれることもあるからね、そういうの。

飯野 そうかもしれないけど、あんまり空気が読めないところが私の側にあるかもしれません。

清水 すごく良かったと思うんですけど。

ハン 『ポリどこ』の鼎談のなかで、私もその種のことをけっこう言っていたと思います。清水さんがさっきおっしゃっていたことと関わるんですけど、「マイノリティの権利とか、大事だよね」というスタンスの人に対しても、言っている部分ってあるじゃないですか。「アライ(Ally)」の話だったりとか。マジョリティ/マイノリティって二項対立的なものではないけども、たとえばマジョリティの役割として、権利を守るとか制度をつくるとか、なんかもっとそういうことをやったりすべきなのに、「お気持ち」の問題にしてしまうとか、個々の配慮とかエクスキューズみたいなものになってしまいがちで、やっぱりそこじゃないよね、って。飯野さんが書いていることも、基本的にそういうことだと思うんですけど、3人のスタンスとしてもすごく強調しましたよね。
 だから、場合によっては制度もそうだし、法律もそうかもしれないし、法律じゃなくてもそもそもポリティカル・コレクトネスという言葉で言い表されているようなものは、「気持ち」とかの問題ではなくて、ある種の社会的な規範として考えるべき問題なので。もちろん調整が必要なものだと思いますけども、だからこそそれが大事で……。この話、ずっと行ったり来たりしているんですけどね。
 あと「マイノリティの倫理」って言葉を自分で使っていて、これは使いようによってはかなり厳しい言い方というか、もちろんマジョリティのもつ倫理も必要なんだけども、マイノリティにもある種の倫理って必要だよねって、ちょっといま言ったのと違う話ですけど、そういうことも言っていたりとか。鼎談のかたちをとったことで、けっこう3人ともいろいろなことを言っているよね、と思うところではあります。

飯野 いろいろ投げっぱなしで、うまく回収していないところもたくさんあるんですけど。

ハン 投げっぱなしで。それがいいかたちで読む方の思考を促したりとか、別に答えが書かれていなくても、そうなっていればいいなというふうに思ってますけどね。無責任かもしれないんですけど。

清水 私も無責任かな、と思うんですけど、この話に関して2022年のいまの時点で気になるところをすべて出しつつ、それを全部回収してまとめろっていわれると、たぶん、なんか嘘が入っていくというか、無理が出てくると思うので、そういう意味でも形はこれでよかったのかな、と思ったりはするんですよね。

説得できるのか? 説得すべきなのか?

飯野 PCに関してここは押さえておこうよっていうところは伝えられたと思います。まず、当初から3人の間にあった「PCだけじゃ絶対ダメ」っていうのは当然として、第5章のなかでPCっていうのは「お気持ち」に寄り添わないものなんだって清水さんが言っていたんですけど、あれもPCを理解するうえで非常に重要なタームだなって、あらためて読み返しながら思いました。あそこの清水さんの悩み、まだ解決してない悩みですけれども、それはやっぱり一緒に考えていく必要があるなと思いましたね。いま、特にこの5年間の変化を経て。

清水 そうなんだよね。それはいつもある。要するに、どう寄り添うか、寄り添わないのかみたいな話。

ハン 私がわりと身も蓋もないことを清水さんに言っていますね。「寄り添わなくていいんですよ」みたいな。

飯野 何の話か、少し補足しましょう。『ポリどこ』の第5章のなかに、マジョリティ性とマイノリティ性の話が出てくるんですね。その中盤ぐらいからかな。マジョリティが、たとえばPCに照らして、「あなた、言っていること間違ってますよ」「それ差別ですよ」みたいな感じで批判されたときに、ある種の傷つき体験というかショックを受けるような体験をする。そのとき、それに対して寄り添わないと、その人は保守側に一気に回収されていく、みたいな話を清水さんがされているんです。SNSとかを見て、まさにそういうことが起きているのかなと、私自身も思っているわけですね。
 それに対してハンさんは、マジョリティって傷つき慣れてないよね、やっぱりセルフケアが大事よ、みたいな、セルフケアのすすめみたいなことを言う。私も、半分そこに乗っかりつつも、同時にやっぱり自分の目の前で起こっていることだけじゃなくて、まさにその構造を変えていくっていうところがポイントなんであれば、長期目線で考えて、いま自分にとってちょっと不愉快だったり、なんかモヤモヤするっていうふうに思うことでも、どこかで信じて、やっていかなきゃいけない部分がありますよね、みたいなかたちで回収しているんだけど、これって清水さんの悩みには全然答えられてないな、っていうのをあらためて読んで思っています。

清水 まあね。でも、そう。どうしようもないっていうか、たぶん正解がそんなに簡単に出ないんだとは思う。

飯野 さっきの、議論の土台をどう作っていくかというところにも関わっているのかなと思っています。フェイクニュースみたいなものが流行する時代において、歴史的事実とかデータを揃えてもまったく通用しないっていうか、それを出しても信じてくれないわけじゃないですか。それは日本軍「慰安婦」問題とか戦時性暴力の話を考えるとそうで、あれだけの証拠が揃っていても恥ずかしげもなく否定する人がいるわけなので。そういう人と、私たちは向き合っているということを考えたときに、データや史実だけでダメなら、どうやってその土台を作っていくんだっていう非常に大きな、危機的とも言えるような状況に直面してるんだろうなと、あらためて思います。

清水 でもそこで、目の前にいる人をね、どうやって説得すればいいのでしょうかっていうのが、すごく大きな悩みなんだな、とも感じるんですよ。
 私自身は、もう説得を諦めているところがあって、もちろん自分の学生だったり、同僚だったり、仲の良い友達だったりすれば頑張って説得するかもしれないけれども、知らない人を一対一のかたちで説得するのは、最初から諦めているところがちょっとある。だけど、やっぱりSNSっていうのがよくも悪くも、個対個みたいな感じになるからだと思うんですけど、私もわりとよく、「どう言えばいいですか」みたいな質問をされるんですよね。
「どうやったら、わかってもらえるでしょうか」みたいな。あるいは「どうやったら相手を遠ざけないかたちで、話ができるでしょうか」って。それは「あなた、聞く相手を間違えています」とかしか、言いようがないみたいな感じになるんですけど(笑)。
 ただ、それに私が答えられないということと、それが大きな悩みになっていないっていうこととは違う話なので。たぶん、それを本当にどうしたらいいだろうと思っている人はすごくたくさんいるし、すごく難しいことだと思います。飯野さんも言ったように、たぶんいろいろなこととつながっているから、どうにかしなくちゃいけないんだけど、でもそんなに簡単に答えは出ない。答えは出ないけど、たぶんそこを知りたいと思っていて。特に若い人たちのなかに、いろんな状況に対して、つまりそれが慰安婦の問題をめぐる話であれ、あるいはトランス排除のことであれ、あるいは性暴力のことであれ、どうやって伝えたらいいんだろう、どうすれば相手を怒らせたり態度を硬化させないで話せるんだろうって思っている人たちがいっぱいいるんだなっていうのは、すごくわかることなので。

ハン ただやっぱり、同じようなこともう一回いうようなんですけど。個と個では、もうやるべきではないって思うんです。たしかに、学生とかにそういう相談をされることってあるんですよね。それに対しては「無理して話す必要はない」って答えます。私は、いつもその人と関係を持つ必要は別にないのではないか、というぐらいで。私はわりと、はっきりとそういうスタンスなので。もちろん、みんながそうなっちゃうと、世の中がどうなるのか知りませんけど。ただ、それでも別にいまと大して変わらないとも思うので。実際、個別に説得しても、世の中変わるということはないと思うから。だとしたら本を書くとか、もうちょっとやり方があるんじゃないのかって。

飯野 社会運動をするとかね。

ハン そうですね。宗教施設から連れ帰ってくるみたいな話ではないし、自分の家族とかだったらもしかしたら話す必要があるかもしれないけども、親密な他者じゃない人は関係を切ればいいと。考えが合わない人と一緒にいる必要はないので、説得の必要はそもそも私は感じないんですけども、ダメですかね。

清水 私自身はもう諦めているんだけど、他人にも諦めるべきって言っていいのかどうか。それはよくわからないと思っているんです。飯野さんとかけっこう説得したりするんじゃないですか。そんなことない? そうでもない?

飯野 どうなんでしょうね。

ハン この中では、一番向いていそうな気がします。

飯野 研修とかをやっているからですか? どうなんでしょうね。私自身は研修でも授業でも、至極当たり前の、誰でも知っている、当然押さえておくべきことを伝えているにすぎないと思っていて、新しいことを言っているとも思わないので、それに反発されると不思議な人だなって思うだけかもしれないですね。だから、あんまりそこで説得しようとかは思わないかもしれない。特に個人対個人では説得しようと思わないかな。
 それ以上に、障害の領域にいてすごく悩ましいのは、マジョリティについ寄り添ってしまう当時者が多いことです。障害者って社会の中で圧倒的に不利な立場に置かれているんです。多くの人にどう見えてるかわからないですけれども、非常に、圧倒的に不利な立場に置かれているからこそ、マジョリティに寄り添わないと何も得られない、みたいな感覚を持っている当事者は多い。
 マジョリティ性/マイノリティ性の話のなかで、自分はマイノリティだから特権なんて持っていないもんっていう人がいるのと同時に、マジョリティでごめんなさい、特権持っていてごめんなさいっていう「原罪系」の人がいるっていう話がありましたよね。そういう「原罪系」の人たちに対して、本人たちが気づく前に先回りして、非障害者とか健常者と呼ばれる人たちの罪悪感を理解してあげて、「みなさんも大変ですよね」みたいな感じで寄り添っちゃうような研修もあるんです。そしてそれが、やっぱりマジョリティにめちゃめちゃ人気なんです。
 この7~8年はそういう場面を見てきているので、そうじゃない語り口、つまりマジョリティに寄り添わない語り口っていうのは意識しています。ただ、この本の鼎談でも触れたように、マジョリティ向けの研修ではマジョリティを不快にしないような言葉、あるいはマジョリティに「もっと協力したい」と思わせるような言葉を使ってほしいという要望は、非常に強くあります。政府、内閣府や行政からの要望としてですね。そこで、すごくジレンマを感じながら戦わざるをえなかったし、戦ってきたので、いまは、けっこう自信を持ってやっているかもしれない。

ハン 研修にかぎらず、教育っていう意味では、もちろん私たちみんな教育に携わっていますけど、個と個の関係のなかでは、そういうことをする必要はないんじゃないの、という?

飯野 私はけっこうスルーしちゃうかもしれない。得意のニコニコで。

清水 飯野さんがすっごいニコニコしてるときは、だいたい「バカだな」って思ったりしているとき。

ハン 実は一番怖いパターン。

飯野 違う違う。違います。それは清水さんが流布させようとしているフェイクニュースで、私は「どうしようかな」って思っているんですよ。これは言ったほうがいいのかな、それとも言わずにウォッチしておいたらいいのかなって。

ハン 私は思ったことから言っちゃうんで、逆に反撃もされていて、いつもボコボコにされながらも言っているっていうタイプなんで。

清水 この本を読み返してみて、やっぱりそこは時代だなと思ったのは、トランプ以降の話題とか、事実みたいなものがわかんなくなるとかとはちょっと別のレベルで、オリンピックの話っていうのがちょこちょこ出てくる。なんとなく自分たちでは、そのときのこととして話しているけど、いま読み返すと、

ハン あったよな、っていう。

清水 ここはある意味で本当にオリンピックっていうものの凄まじいところだと思うんですけど、やっぱりオリンピックってまさに表現の問題と、制度とか政治の問題っていうのが、一緒にまとまって出てくるんですよね。しかも今回の日本(東京)だけじゃなくて、その前のオリンピックとか、いつもそうですけど。今回、やっぱりオリ・パラに関わって障害の問題、表象の問題、LGBTQの問題が出てきたし。ほかの国でも、たとえば人種の問題とか植民地主義の問題というのも必ず出てきますけど。今回のPCというテーマと、なんていうか不可避的に絡むオリンピックというのが、ちょうど鼎談をしたりとか執筆をしたりしてる時期に重なったという感じなんだなって思い返しましたね。

飯野 そうですね。5、6年かかったからこそ書けたっていうか。

――本を出すまでに時間をかけたことにも、意味があったわけですよね。今回のイベントも長い時間お付き合いいただきました。みなさん、本当にありがとうございました。

(収録:2022年10月3日。オンラインイベントの内容をもとに修正)


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