大切なのは「意識が高い」ことではなくて「たのしさが高い」ところにあるか

昨日の夜、プレゼンの後に「ひさびさに松田さんと飲みたいっす!」と甘えてみた。”良質なデブ”というパワーワードを自称するその先輩営業は、もし出荷されたらA5ランクがつくであろうツルッとした肌とマルッとしたボディをふるわせながら「おお、じゃあ今から行くか!」と最高のノリで応えてくれた。いざ、すしざんまいへ。(そういえば松田さんとすしざんまいの社長はとても似ている。)

今年もよろしくお願いします。そう言って乾杯したから新年会ということになった。僕が先輩に甘えて飲みに連れて行ってもらうのは年に2回くらいしかないので、松田さんや他の営業は嬉しかったらしい。そう思ってもらえることが嬉しい。

昨日プレゼンした案件はとても思い入れがある仕事で、資料づくりひとつとっても結構な時間を割いている。だからつい「自分、お疲れさま」と労って欲しくなったのだけれど、もし提案が通れば年間で7000万円の売上。これは正直、僕の会社からすれば少ない。たとえば利益率が20%としたら1400万円、それをチームメンバー5人で割ったら280万円しか残らない。当然これ以外の案件もたくさんやっているけれど、僕の年収と人件費を考えたら会社的にはぜんぜん物足りない。僕ももう、そういうことも考えて仕事をつくらなければならない年次だ。

特に売上のことで、松田さんは申し訳なさを口にした。それはお互い様ですよ。久々に食べるとやっぱりおいしい寿司を平らげながら、新しい仕事をつくりましょうという話をたくさんした。それくらいしか会話を覚えてないけれど、でも良い会だった。おいしかったのは何も寿司のせいだけじゃないだろう。

仕事の先輩と飲みに行くことを嫌う若者が多いと聞く。僕自身お酒はそこまで強くないし、だから単なるお付き合いでの飲み会は最悪。僕も若い頃はそういう機会が多かった。

だけどね。それはキミが未熟なせいだよ。今ならそう言える。自分で仕事をつくれるようになると、先輩からの見られ方も会話の中身も変わる。的外れな説教をされたり自慢話を聞かされたりすることもなく、仕事という名の青春の駆け抜け方の作戦会議ができる。これはとっても、からだにいい。実力もないのに意識だけが高くて、自分だけが気持ちよくなれることを求めているうちは高(たか)が知れている。

いつだって大切なのは「意識が高い」ことではなくて「たのしさが高い」ところにあるか。高尾山みたいなお気軽に登れる山を探して必死にてっぺんにしがみついているうちは、なんというか、たのしさがとても低いところにあるとおもう。「自分が娯楽を消費している」のではなく「人生が娯楽に消費されている」のだで扱ったような位置で満足している人は、山の麓をうろついているにすぎない。

自分の山の低さにも気づかず威張り散らす人の姿は大変みっともないわけだけど、そのことに気づけるようになるには、もっと高い山を登ってみるより他ない。自分がいま立つ場所を山のてっぺんにしようと必死にポジショントークする人、あるいは人生が娯楽に消費されてしまっている人をみると、申し訳ないけれど気の毒に思う。あっちの山も登ってみようよ、という誘いを何度も断るうちに、誰にも誘ってもらえなくなってしまったのだろう。耳もずいぶん遠い。僕の声は届かない。

今年はどんな山に登って、どんな景色と出会うのだろう。ひょっとしたら谷をグッと降りるのかもしれない。わからないって、変化できるって、ワクワクする。

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