「自分が娯楽を消費している」のではなく「人生が娯楽に消費されている」のだ

コミュニティデザイナーの山崎亮さんがつかっていた『楽しさ自給率』という言葉を最近よく思い出す。彼は地域に入り込みながら外の目線で魅力を再発掘し、日本中をおもしろくしている人だから「食料自給率」に掛けて、『楽しさ自給率』。翻訳すれば“自分たちで自分たちの暮らしを楽しくする力”だろうか。

こんなエピソードを聞いた。ある地方で「この町も段々と活気付いてきました。この先どんなものがあるといいですか?」と問いかけたところ、町民たちは「スタバとかあったらなあ…」と口々にしたそうだ。スタバなんてないからこそ“その土地にしかない魅力”が芽吹きつつあるのに、その先の未来を“どこにでもある都市の姿”として空想してしまう。彼ら彼女らは『楽しさ自給率』が低いのだ。だから大勢が認める“魅力的っぽいもの”にすがってしまう。

翻して、都会人はどうだろう。楽しさ自給率が低いなあ、と休日のカフェを見渡すたびに思う。少なくない人が無表情でスマホゲームに没頭している。自宅でネットフリックスやYoutubeを観ているうちに日が暮れてしまった人も多いだろう。

彼ら彼女らは「自分が娯楽を消費している」のではなく「人生が娯楽に消費されている」のだ。自分がどっち側かを確かめるためには、今夜死ぬことを想像してみるといい。

昔TEDで観た動画で、“人が死ぬ間際に残す最後の言葉”についてアメリカの救急隊員が語っていた。ほとんどの人は感謝ではなく「なぜ自分はあんなにも無駄な仕事や毎日を過ごしてしまったのだろう。なぜ自分がやりたいことをやらせてあげなかったのだろう。」と後悔を口にするのだそうだ。

スマホゲームやネットフリックスに休日を捧げる人たちは、死の間際に「もっとゲームをやりたかった」「ドラマの続きが観たかった」と口にするだろうか。そうじゃないなら、自らの楽しさ自給率は低いと考えていい。

その原因を考えると、ネット社会と情報ターゲティング技術が関係しているのは明らかだろう。スマホ育児という言葉があるくらい、ネット動画やゲームというものは人を中毒患者にする根源的なパワーがある。そしてテレビや新聞など、興味のない情報を避けて生きるのが当たり前になった今、スマホを覗けば自分の興味がある情報しか当たらない。自然といまの趣味嗜好だけが反復され、どんどん固定化されていく。「興味の外に出たくても出方がわからない」状況に陥っていく。

こういう時代にあっては「知らないことを面白がる」「知的好奇心に負ける」「自分の頭で考える楽しさを知る」といった力が楽しさ自給率を上げる鍵になる。旅なんていいとおもう。ぼくらはいま冒険力が試されている。

また書きながら寝てしまった。1日ずれての更新。早く今日に追いつきたい。



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