逃避行ヘッダー

『短編小説』最終回 逃避行 /全6回

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「おう、お前ここにいたのか」

朝、公園の水道で顔を洗っていると後ろから声が掛かる。権蔵だ。彼の嗄(しゃが)れた声は彼の顔を見なくても容易に分かった。

「ああ、……どうも」

「知らねえ顔がいるって聞いてたからよ、お前だったのか」

不思議に思った。この前会った時は俺をまるで他人のように扱ったのに、今はなぜか〝同族〟のように扱われる。まだ身なりはさほど汚れてはいないはずだし、そりゃ綺麗じゃないとしても至って普通のTシャツにジーンズを履いているだけだ。公園に散歩に来ただけと言えばそれでも納得しそうなものなのに。

「で、どうだ?」

それでここでの生活はどうだ?と聞かれていることはすぐに分かった。俺はまだ自分の不思議に感じていることも整理出来ていない状態で

「ああ、いえ、……慣れませんね」

と答えた。がははと権蔵は笑い「分からねえことあったら聞きに来いよ」と言ってくれた。


 分からないことだらけだ。分からないことだらけだから、俺はすぐに権蔵の元を訪ね、それぞれどうしたらいいのかを教わった。ホームレスといえど、どこにいたっていい訳じゃない。それぞれ個人が、ある程度のテリトリーを持っていて、毎朝決まった時間にその辺りを周遊(徘徊)する。自由ではない、だけどある一定のルールの中では自由だった。最初の頃はそんな生活に全く慣れず、なけなしの貯金に頼っていた。コンビニに入ると店員にも他の客にも変な目で見られた。分かってる、分かってはいるものの、自分が物凄い辱(はずかし)めを受けているようで落ち着かなかった。

 しっかりと会社を辞め、計画的にこの生活に入ったのが一ヶ月程前。一ヶ月も同じことを繰り返すと人間は次第にその環境に慣れてくるものだ。携帯がないから、家族から電話が掛かってくることもない。ただどうしてもみなとのことは気になった。あの母親と一緒にいて、彼は辛い思いをしていないだろうか。自分勝手なことは分かっているけれど、元の生活に戻れるとは思いもしなかった。次第に周りの目も気にならなくなってくる。

というより、最初から俺なんて誰にも見られていなかったのかもしれないと思い始める。家族にも、社会にも、ちいさなありんこにだって、誰一人として相手にされていなかった。今までならそれを孤独に感じていたはずなのに、なんだかそれが気持ち良い。自由だ。そう思えた。

決まりが全くない訳じゃないが、それでも前の生活より随分と自由になったんだと思えたのだ。無責任なことくらい分かってる。人間として男として、全てを放り出したなんて間違っているということだって分かってる。だけど俺にはこの道しかなかった。こうすること以外に、自分を変えることなんて出来なかった。小さな檻の中で、息だってままならない。強さだ。俺が今こうしていられるのは、強さの証拠だ。そう自分を納得させる。

この生活にも大分慣れた。いつまで続けられるのかなんて分かりもしないし、考えようとも思わない。いつまでだって続けられそうだ。ここが俺の居場所だ!

「すみません、ちょっと失礼します」

ゴミ箱の中に手を突っ込んでいたその時に声を掛けられた。警官が二人立っている。……俺は何もしていない。

「あの、すみません。篠原さん、篠原正夫さんですよね」

篠原、正夫?その名前を一瞬頭の中でこねくり回す。俺は体を固めたまま返事もせずにしばらく考えていた。……俺の名前だ。ゴミ箱から手を抜き出し、急いでその場から走り出した。「あ、おい、ちょっと待て!」と後ろから警官が追いかけてくる。俺は必死になって逃げる。警官も必死に追い掛けてきていた。可能性として考えなくはなかった。捜索願いくらい出してるだろうと思っていたが、こんなにも早くに見つかってしまうとも思っていなかった。誤算だ。俺は繁華街を必死になって走る。

後ろから警官の声がしきりに聞こえてきていた。ダメだ、捕まったらあの生活に戻されてしまう。何より、今更皆に合わせる顔なんてないじゃないか。

 排他的な街なのに、ホームレスと警官の追随を周りの人たちは面白可笑しく笑っているようだった。……それどころじゃないっていうのに。ふと横を見た時、あのガキが見えた。俺のことを臭いと言っていたあのガキ。……ああ、そうか。あのガキは俺の昔の頃なのか。こうやって子供の時、よく夜の街を歩いてたっけ。それでよく警官に親のところまで連れていかれてたよな。……ああ、俺、昔と何も変わってないんじゃねえか。

 月だけは綺麗に光っていた。それも霞むくらい、夜の街は明るい。

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