逃避行ヘッダー

『短編小説』第4回 逃避行 /全6回

 自覚はなかったが、俺は少しずつ蝕まれていったのだと思う。加奈子との毎日の言い争いの中で、少しずつ消耗していき、俺の一部は削れていったのだろう。俺はそれに気付くことが出来なかった。もし少しでも早くその異変に気付いていれば、何か対策を案じることが出来たのかもしれない。ただ気付いた時には遅かった。気付いた時には俺は家を飛び出していた。なぜ自分がそんな行動をしたのかはっきりとした理由は見つからない。

確かに疲弊する家庭から逃げ出したいという気持ちは十分にあったが、それで突然投げ出してしまえる程勇気のある人間ではない。社会的な立場は重んじる人間だ。妻と子供を残し逃げるなんて行為は、俺の自尊心を強く傷つける行為でもある。それなのに、俺はその場から逃げ出さずにはいられなかった。みなとにはもちろんだが、加奈子にも悪いと思った。行動と裏腹な気持ちに自分でも収拾が付けられず、だけど、やはり家に帰るなんて気持ちにはなれない。

 それから数週間はホテルを転々としていた。毎日のように加奈子から電話があり、気付けば加奈子の実家から、また俺の両親からも電話があったが、それらには一切出なかった。数日でうんざりして、俺は携帯を川に投げ捨てた。ただ投げ捨てただけだというのに、随分と心が軽くなった気がする。こんなことで軽くなれるのだ、生きることも悪いもんじゃない、なんて呑気な考えを巡らせる。貯金はそれなりにあったはずだから、加奈子とみなともとりあえずは困らないだろう。ただ問題なのは俺の所持金と、俺が個人的に所有している口座の残高が底を尽きそうだということだった。会社の給料は全て加奈子が持っている口座に振り込まれる。俺には一銭も入らない。

やはり俺はあの家に帰らなくてはならないのだろうか、と考えていた時にやたら目に入ってきたのがホームレスたちの営みだった。彼らは何を目的に街を徘徊するのか、なぜこんな大都会に居座ろうとするのか、何が楽しくて生きているのか、何のためにそれでも生きようとするのか。俺は彼らなら何か答えを知っているんじゃないかと思って疑わなかった。……ただ、だからと言って簡単にその世界に飛び込める程、出来た人間じゃない。

「なんだ、お前」

ぼけっと何かを見ていたはずだった。その声のおかげで、俺は屋根代わりにブルーシートを被せてある雑多と作られたその〝家〟を見ていたことに気付いたのだった。

「……あ、すみません」

そういって軽く頭を下げ一歩下がった。その男性はチッっと舌打ちをしてその〝家〟の中に入っていった。……自分は何をしているのか、と我に返ってその場を立ち去ろうとすると

「おい!おい!ちょっと待てよ」

と声を掛けられる。後ろを振り向くとさっきの男性がその〝家〟から顔だけを出してこっちを向いていた。

「お前あれだろ?こっちに来たいんだろう?」

「え?……は?」

「そういう目してんだよ。俺はな、そういうの分かっちまうんだよ。なんつーか、このへんで」

そう言いながら自分の後頭部の辺りを指差した。

「……あ、いやいや、そういうつもりは……」

「何と言おうが分かっちまうもんは分かっちまう。……まあ無理強いすることじゃあねえ。お前がもし話を聞きたいってんならまた来な」

そう言ってひょっこりと頭をしまい込んでしまった。変なことに巻こまれなくて良かった、と安心しつつもやたらと気になっている気持ちを隠せなかった。結局その翌日に、俺はその男性の元を訪れるのだった。その時、その人が権蔵という名だと知った。

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