少なくとも

『短編小説』最終回 少なくとも俺はそのとき /全17回

「仕事のことですか?」
「仕事だけじゃない、全部だよ」
「全部って言われても……」
「深く考えることじゃないよ、ただなんとなく、ぼーっとさ、色々って思ったりしない?」
ただなんとなく、ぼーっと、って言われても彼女の言うその感覚を掴めそうになかった。まあでも確かに、色々は色々なのかもしれない。だって、うん、どうだっていいことだけど、俺は今自分の働く風俗店の一番指名が入る女の子と隣でお酒を飲んでいる。これを昨日の俺が予想出来ただろうか?出来るはずもない。時計は四時を回っていたけど、この時間にベッドに入っていない自分を、昨日の俺は予想出来ただろうか?……そう考えれば人生は実に色々なのかもしれない。自分の予想なんて簡単に一蹴されて、俺はいつだって人生というそのものに振り回されていたりして。
「何黙ってんの?」
少し疲れてきた。一日働いて、寝ずに酒を飲み続けるなんて、もう俺はそんな年齢じゃない。……とは言っても大した年齢でもないが、おそらく元々向いていないのだ。
「そろそろ帰ります」
「えー、なんで」
「ちょっと眠くなってきたんで。ここから家近かったですよね?」
「うん、すぐそこ。この真裏」
「じゃあもう送らなくても大丈夫ですよね?すみませんが、僕は先に上がらせて頂きますよ」
少し物惜しげな彼女の表情が心に引っかかったが、俺はそのまま店を出た。外の空気は冷たく、火照った体にはちょうど良いくらいだった。
 朝だ。もう少し時間が経てばじきに太陽も上がる。ここに来た時よりは、幾分街も静けさを持ったように見えたけど、それでもまだまだ東京の夜は賑やかに思えた。寝床だって、大して探さずとも見つかりそうだ。走る足音が後ろから聞こえ、ちょうどそれが止まったかと思ったら肩を叩かれた。後ろに彼女が立っていた。
「ねえ、これ渡したかった」
彼女はそう言って手を差し出した。それを受け取ると、大手商社の名前と共に「佐竹華湖」と彼女の本当の名前が書いてあった。俺がそれを受け取ると
「それじゃ、また明日ね」
と言ってさっきの店の方向に歩き出した。彼女はなぜ俺に昔の職場の名刺なんて渡すのだろう。しばらく考えてみたが、それは漫画喫茶に入って、横になって眠りに就いてしまうまで全く見当が付かないままだった。人生って色々……。ああ、確かにその通りだ。だからこそ俺は、もうその先、その未来を考えることを諦めた。未来なんて考えたって分からないじゃないか。それでも未来はやってくる。俺はただそれを待っていればいい。
 その日見た夢。広告代理店で働いていた俺の姿。起きた時になぜか、俺は顔を濡らす程涙を流していた。

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