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これが本当の気持ちよさ 09/27

今日は清々しさでいっぱいです。
美味しいご飯を食べて、仕事して、面白い企画展見て。夜日課の散歩もできました。
こういう当たり前のことができた日というのが気持ちいんだと再認識した。

学生時代はこういう日ばっかりだった気がする。
多分学生の頃は長丁場のタスクもなく、毎日程よく運動して、課題をしてその日のうちにやるべきことは基本全てが終わる。
社会人は自由の幅と比例するがの如く、やることの幅も広がるから、当たり前ができなくなってくる。
自由というのは、自由という不自由も与えることに社会人になって気づいた。
学生のころは、やらなきゃいけないことや、その先のゴール(受験や就職)などが決まっていた。というか大人が決めてくれていた。
多くの人はそのレールの上でいかに速く、効率よく走れるかを極めることに時間を費やしてきたはずだ。自分からレールを外れ、そこを全力疾走で走れる人間が、本当の意味で’自立’できた人間だったんだろう。なかなかそういう人は見かけないけどね。
多くの人は社会人でそのことを実感すると思う。

レールも自分で決めて、そこを走るか歩くか止まるかも決めて、ゴールも決める。そしてそのゴールが本当のゴールなのかも日々見定めなければならない。これが自由という名の不自由だと思う。
急にそういう世界に放り込まれるのだから、生きるとは難しいものである。

そこで話を戻す。
当たり前というのはやらなきゃいけないことであったり、やるべきことだと思う。それは学生時代多くの人はできていただろう。
今できなくなっている人の多くは、レールやゴールが見えていないから、その当たり前すらも頑張れなくなっている。
だってこの先がゴールかもわからないし、正しい線路かもわからないから。

でも高村光太郎 『道程』が芯を食っていると思う。
自分の後ろに道はできるんですよ。
その日の足跡をしっかり残せば、きちんと先に進める。
今見えているレールもゴールももしかしたら違うかもしれないけど、その進んだ脚の方角というのは多分求めているゴールに近いはずだ。

その’当たり前’というのはご飯を作ることだったり、掃除をすることだったり、走ることだったり、人によって様々であろう。
でも自分がやるべきことだと思っていることができた日は、最高に気持ちがいい。それを今日再認識した。全てできなくてもいい。
今日は8割ぐらいしかできなかったけど、何もできていない日よりかは気持ちがいい。
皆さんも本当の気持ちよさを探してみましょう!

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