机上の修論はタイムカプセル。-大学院で感じたM2的無力感
修士論文・審査会を終えた。
華々しいものではない。
15分間のプレゼン発表と5分間の口頭試問に辛くも、耐えた。言い残すことは何もない。
「ご清聴ありがとうございました」を皮切りに、副査を務める教授陣から矢継ぎ早に鋭い意見が投げかけられる。主査の目が怖い。
餌を目前に15分間の「待て」のお預けをくらったアカデミック猛獣が弱りきった学生を強襲する。
何を聞かれたか、どう答えたか、あまり記憶がない。
隠れインパクトファクター
2年間で残せたものはなんだろう。
研究室配属されてから2年ないしは3年間の集大成である修士論文。その最後のページを「本研究が将来の研究の一助となることを願っている」と大層な言葉で締めくくった。
しかし実際は、上手くいかない手法による、上手くいかなかったデータをまとめただけの「絶対やってはいけない実験5選!」みたいなものであった。
「○○について調査してみました!しかし、わかりませんでした!」みたいな語調の低品質キュレーションサイト雑多記事と同じだ。
「いかがでしたか?」で締めていないだけ褒めて頂きたい。
あの手の記事は中身がない。
この手の修論もね。
ファーストオーサーで学術論文が出せた修士学生を心の底から尊敬している。学術誌に載るということは、その道のプロから太鼓判を押された証であり、世界中の研究者に読まれることを意味する。
この世界では論文数・被引用数が全てであり、この数によって研究分野内ヒエラルキーが決定される。嗚呼。論文持ちの同期が輝いて見える。
「そんなことないよ」と謙遜されるかもしれないが、どうか自慢なさって欲しい。
言うまでもなく論文ゼロの私は卑屈になってしまう。足が速かっただけでモテていた頃に戻りたい。
私の修士論文を見るとどうだろう。できない手法、できない条件を詳細に検討した禁忌の実験集である。その点では、私の修論は一助にも二助にもなるかもしれない。
つまり、この修論を参考に、私が試行した条件を避けて研究すれば良い。屍を越えてゆけ。
私の二年間は、誰かの二年間を救うだろう。たぶん。インパクトファクターは高いはずだ。
これを隠れインパクトファクターと呼びたい。
机上の修論
理系の世界では、予想と異なる結果が得られることが往々にしてある。実際に私も研究生活中に「いやいや、そうはならんやろ!」という結果と向き合ってきた。
外れ値であれば、どれほど良かったでしょう。理系米津玄師の爆誕である。
腑抜けた心持ちでいるからなのか、この外れ値・異常値が十中八九、再現する。ちなみに「再現する」は、繰り返しその事象が起きることを指す。
ただ、その結果を理論的に説明できれば何も問題ない。それが理系屋さんのお仕事だ。
ここで、最もタチが悪いのは『先行研究ではAという結果を支持しているが、自分が実験するとAではないことを示した』結果である。
結局、修論執筆中も先行研究無視結果に悩まされることになる。
「何か参考になるものはあるかな」とネット検索すれど、文献を辿れど、書庫を巡れど報告例が無い。あってもNo Accessだ。
一日中「無い・・・無い・・・これも違う・・・」と唸りながら文献を探していると、石川啄木の『働けど』を思い出す。文献を辿れど辿れど、我が研究楽にならざり、じっと値を見る。
遂に埒が明かなくなり、最終的には指導教員に「(キチンとした)論理で説明するのは難しそうなので、合理的な妄想をしてください」と言われた。
ありていに言えば「言い訳しろ」ということである。
そうして無駄データを寄せ集めただけの机上の修論が出来上がった。
他の院生が着々と結果を残しているのを横目に、学部で学んだことを土に還していた。
先行研究クソくらえ
B4的全能感とM2的無力感
遡ること2年前。私は卒業研究の発表を終えて、「俺は何でもできるぞ!」という気がしていた。この研究について大学で一番詳しいのは私だと得意満面であった。
中央大学で言語学者をされている福田先生の言葉を借りるのであれば、B4的全能感である。
しかしこれは、ダニング=クルーガー曲線の初期に訪れるピーク現象と同じ事象。テスト期間の深夜に湧く根拠の無い自信と同じものだ。
さて、今はどうだろうか。
何も分からない。
かがくの「か」の字も分からない。
私の研究題材である「有機デバイス」を作製するためには、「分子性伝導体」の理解が重要である。分子性伝導体を理解しようとすると、「固体物性」を勉強しなければならない。固体物理を勉強するためには「古典物理」・・・。学問は無限に参照され、裾野は無限に広がっている。
「サルでも分かる!」理系入門書に破門される。
人類の退化は始まっている。
ダメ大学院生は興味本位で隣接する分野を覗いてしまい、ダニング=クルーガー曲線の2回目の頂上の標高を知る。山頂に到達するまでの理解必須タスクの量を知ってしまう。むやみに触ってはいけない。タスクが雪崩のように押し寄せてくる。
私のようなダメM2は、知らないことを知る。そして、知らないままでフタを閉じる。
そんなこんなで、修論を書き上げたときに込み上げて来たのは達成感ではなかった。
「嗚呼、まだ、俺は何も知らないんだなあ」という無力感でしかなかった。
M2的無力感。
修論とタイムカプセル
この2年間は学ぶことの連続だった。強く感じたことをザックリ一言にするならば、大学で習うことは「ここ50年くらいの研究者の経験的に、凡そそうなるであろう理論」に過ぎないということだ。つまり、「未だ確立されていないことが多く、不確定なことに関しては多数決で最もらしい説を便宜上取り決めている」ということである。
天動説地動説論争はあまりにも有名だ。ある日、学説がひっくり返ることもある。
その不確定な説を、客観的なデータに基づいて実証する場が大学院である。本当のことは神のみぞ知るのだ。
だからこそ「データの捏造・改ざん」も平気で起きてしまう。結果を残さないとクビにになるという背景も研究者をそうさせる。
アカデミックの世界に身を置いてるとデータの改ざんは簡単にできてしまうなぁと痛感する。Excelで数値を編集すれば、ものの数秒で完了するからだ。
時々、大企業のデータ改ざん問題が報じられる。上司にキツく「結果で示せ」と言われ、良い結果が出ないと昇給・出世もない。上層部にイビられ…。そのような背景を思うとニュースを見る度に同情する。悪事に手を染めてしまう気持ちも理解できてしまう。生きるためだ。
という感じなので、「何か、怪しくね?」という論文は腐るほど転がっている。不自然にデータが切れていたり、グラフの解像度が悪くなっていたりと。論文が正しいとは限らないのだ。
あと、エセ科学にも気をつけてほしい。水素水はありまぁす!
話が逸れてしまったが、「未だ確立されていないことが多く、不確定なことに関しては多数決で最もらしい説を便宜上取り決めている」のである。
超拡大解釈をすると、私が書いた机上の修論も数十年後には世紀の発見と言われる可能性を秘めていることになる。
学術的タイムカプセルだ。ロマンだなあ。20年後くらいに掘って読んでみよう。
どうかこのまま地下奥深くで腐敗してしまわないことを願うばかりである。
院生とグライダー人間
いよいよ大学院が終わるな、と思い始めた今年の初め。『思考の整理学』という本を思い出していた。
はじめて手に取ったのは確か大学入学前の春。「東大学生生協で売上No.1」というポップが踊っていたのを思い出す。
一度は目にしたことがある人もいるだろう。何故か春になると、書店の一角を牛耳っている。言わずと知れた名著である。
当著書の冒頭では、勉強ができる優秀な生徒をグライダー人間と例えて、以下のように述べている。
こんな調子で最高な文体が続くので、是非読まれたい。
研究に向き合った期間は紛れもなく、失いかけの飛行能力を取り戻そうとしていた。意味不明な現象・データに向き合っている時間、同期やドクターの先輩に相談したひとときは、一瞬で過ぎ去ったように感じるし、一番充実していた。
修士課程は、飛行機人間への移行期間だったのかもしれない。少しは飛行機人間に近づけただろうか。
総括
以上、非常にダウナーなテンションで書き殴りをしてきたが、充実した大学院生活であったことに間違いない。第一、好きな研究ができた。
特に指導教員には感謝が尽きない。「ダラダラせずに、効率よく実験しよう。終わったらさっさと帰ろう。土日はしっかり休もう」という指針だったので、この2年間は心身ともに健康状態がすこぶる良かった。常に学生優先に考えてくれていた。
ただ、これを読まれてしまうと「こんなもの書く時間があれば、もう少しマシな修論が書けたのではないか」と言われそうだ。はい、ごもっともです。
専攻・研究室の人間関係にも恵まれていた。いつも飲みに誘ってくれる人。泥酔すると露出しだす人。性癖を語りだす人。ジャン負け奢りで多額の負債を抱える人。挨拶代わりに尻を触られる人。週5本モンスターを飲む人。それを見る人。鼻で笑う人。全く興味を示さない人。エトセトラ。
本noteが将来の私の一助となることを願っている。
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