見出し画像

自分でも卑屈だと思う

 「自分が書いた小説を誰かに読んでほしい!」みたいな意欲的な感情が全くない。仲良しさんの小説を読ませてくれとせがむことはあっても、代わりに私のも読んでね、とは思わない。
 だって恥ずかしいから。
 読んでいただく価値がないくらい下手くそな小説を書いている自覚があるから。
 で、それを読んだ優しい人が一生懸命私を傷つけない感想を考えるのかと思うと申し訳なくなってくる。私自身、真の読書家ではないので、ハズレ小説を読むのにかかる時間や労力は察することができる。間違いなくハズレな作品を渡せるほど面の皮は厚くない。ようは自信が無い。
 誰かに読んでもらい感想や指摘をもらったほうが、客観性のある意見を組み入れて作品を推敲、改稿することができて有意義だろうことはわかっている。でも無理。恥ずかしい。恥ずか死ぬ。
 小説講座をしている人が、それは目が肥えたせいだと言っていた。だとしたら成長を喜んでもいいのかもしれないが、その次にえいっと勇気を振り絞れるかどうかは大きな分かれ道のように感じる。一人でこそこそ書いているより、読みあいなどしたほうが得られるものが多そうだ。
 誰かの時間を奪うことが怖い。
 そして私の恥の結晶が露呈することが怖い。
 その点、公募に出すのは気楽だ。
 読んでくれるのは仕事としてやってる人だし、評価が公に発表されるわけでもないし。
 いつか、誰にでも胸をはって読んでもらえるような作品が書けたらいいなと思う。


 私は執筆の際、キャラ同士の関係や心情から構想を練っていく。感情移入するタイプなので、そのあたりは一生懸命考えているつもりなのだが、それがなんだか文章に表れていない気がする。
 キャラの性質や仕草はよく書いていると思う。そこに心情を含んでいるつもりだが、読み手にはきっと伝わっていない。何故なら書いた本人が読み返しても「なんかあっさりしてるな」と思ってしまうからだ。場面ごとに変わっていく感情をもっと丁寧に繊細に書きたいのにうまくいっていない。
 こだわったと思っていることと実際に書いたものに乖離があると悩んでしまう。そういうところを一々直していってクオリティに繋がったらいいけれど。今書いている作品は推敲中だが、推敲苦手だし嫌いだし飽きるからちゃんと直せるかわからない。頑張ろうとは思ってる。思ってるだけ。


 最近ちょっと思い悩んでいたのだけど、アラサーにもなってすごく幼稚でくだらなくて恥ずかしいことだったと反省している。反省、というのはちょっと違うかな。そういうのはどうしようもない感情だから。
 恥ばかりの人生だ。
 誰かもそんなこと言ってたけど。
 もっとまともに生きられたらいいのに。
 それでも私は自分のことは嫌いじゃない。どうしようもなさに頭を抱えて転がりまわるけど、時間が経てば「まあまあ頑張ってるな」と許せる。許せるけど恥ずかしさは残るから、やはり酒焼けしたカエルみたいな声で呻いたりはする。ぐえぇん。


 そんなことを思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?