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( 引用 )川上未映子 「ウィステリアと三人の女たち」

春になると、老女と外国人教師は授業のあいまによく縁側にふたりで並んで、藤の木を見上げた。Wisteria、外国人教師はふと藤の花房と自身のあいだの空白に呼びかけるように呟くことがあった。そしてある日、おなじようにふたりで藤の花を眺めているときに、きみのことをウィステリアと呼んでもいいかと老女に尋ねる。
「いいけれど、どうしてウィステリアなの」
「わからない」外国人教師は微笑んで言った。
「ただ、きみの本当の名前はウィステリアなんじゃないかと思ったんだ」
「本当の名前?」
「うん。人にはみんな本当の名前というものがあって、わたしにはそれがわかるんだ。しばらく一緒にいるとね、その人の顔の真ん中からある日とつぜん名前がやってくる。きみがウィステリアだってことはすぐにわかった」
「日本人でも?」
「名前と見かけは関係がない」外国人教師は言った。
「その藤の木はどう? わたしの名前に関係はある?」
「それはあるかもしれない」外国人教師は眩しいものを見つめるように、目を細めて老女を見た。
「きみたちは見分けがつかないくらい、よく似ているから」

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