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「ファミリーソング」アーバンギャルド作の考察


この歌詞の内容はおもちゃのリカちゃん人形にジュニアモデルの少女が自己投影している様子であるということを前提に話を進めていく。

では歌詞を順を追ってみていく

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おもちゃのリカちゃん人形の描写とジュニアモデルの少女のプロフィールが綯交ぜに描写されている。

そもそもジュニアモデル(アイドル)とは何か?

ジュニアアイドルとは、低年齢のアイドル・グラビアアイドルのこと。おおむね15歳以下(中学生以下)を指して呼ばれるが、16・17歳も指すこともある。(Wikipediaより引用)

まあロリコン向けのイメージビデオに出ている少女を思い浮かべてみると間違えないだろう。

話を戻します。

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これもおもちゃのリカちゃん人形とジュニアモデルの少女の状況が綯交ぜである。「いつも最後の晩餐」裏切者のユタがいることを示唆されていて緊張感が感じ取れる。ここでいう裏切りはのちに触れる。

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裏切りとは母にとっての、父の浮気である。ということが明かされる。しかし本当にそれだけであろうか。。。

ジュニアモデルの少女が「ドキュメンタリーで泣く」とは、「現実」に絶望するという意味でつかわれている。

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変わらない現状を嘆くジュニアモデルの少女の描写

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辛い仕事の様子が描かれる。男の子=カメラマンのじじいであるということは容易に想像がつく。

ここで大きな場面転換を迎える。

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なんと母親は庭でジュニアモデルの少女を燃やしたのだ(比喩であると願いたい)しかし、ジュニアモデルの少女=おもちゃのリカちゃん人形にとって燃やされる=殺されると同等の心理的、ダメージを受けたと考えられる。

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心理的または身体的ダメージをうけ、抵抗することをあきらめた、ジュニアモデルの少女の姿でこの曲は幕を閉じる。

まあ順をおって説明するとこんな感じになる。

ここで本題に入る。

ごっこ遊びをしているのはいったい誰か、

一見ジュニアモデルの少女であるように見えるがそれは違う、彼女はドキュメンタリー(現実)に泣いているのだ。

ではジュニアモデルの少女の母親だろうか。
否、彼女だけでないカメラマンのじじい=男の子もそうだ。
なぜわざわざ「男の子」と明記するのか、それはジュニアモデルの少女には、そのように見えるからだ。ごっこ遊びをしている子供のように。
また「パパは愛人に夢中」の夢中という言葉が、まるで子供に向けられた言葉であるようなのが、とても味わい深い。

もしかしたら「そろそろごっこ遊びはやめなさい」はすべてを悟ったジュニアモデルの少女のセリフなのかもしれない。
「おもちゃ=私=ジュニアモデルの少女、なんて捨てなさい」と親を突き放したら、捨てられてしまった。そういう構図が浮かび上がってくる。愛されていないのだ。

少女=人形=利用価値のあるおもちゃ

いつまでも大人になれないのはリカちゃんではなく、周りに居てジュニアモデルの少女を利用してごっこ遊びをしている大人たち。そして「あたし人形のままがいい」からは利用され搾取しつづけられることを望んでいるジュニアモデルの少女の姿が見て取れる。やはり、親には捨てられたくないという意思がくみ取れる。序盤のファミレス、最後の晩餐で裏切ろうとしていたのはジュニアモデルの少女で結局のところ抵抗せずに屈服したということになる。

この曲のタイトルの「ファミリーソング」は
「家族自体がごっこ遊びである」ことを示唆しているということを私は結論として述べる。ごっこ遊びをしているのは、家族全員で、少女の諦念によって彼女もその一員となった。

あとがき

そもそもなぜ「ファミリーソング」について論じたのか。

①リカちゃん人形のユーザーだったから。

②ジュニアモデルという非常に黒に近いグレーゾーンな職業に興味を持っていたから。(搾取されてしまっている少女たちが悪いと言っているのではない、使っている大人が100%悪い)

③リカちゃん人形の設定=ジュニアモデルにしっくりときたから。

④キャッチーな曲調で一日に何度もリピート再生していたから。

⑤ジュニアモデルが置かれている状況の過酷さを歌った歌は貴重だと思ったから。

⑥小さいころに芸能界を一瞬だけ夢見ていたので、もしもの自分の姿と重ね合わせてしまったから。

まあざっとこんな感じである。

私は、結構歴の浅めのアーバンギャルである。非常に創作意欲や刺激を松永天馬はじめとするアーバンギャルドに掻き立てられている。そのことからここでひとつ形にしてみたいとおもった所存である。

読んでくださってありがとうございました。


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