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こどもの情景 女の子が18歳で海を捨てる決心をするまで

水路沿いの道は長い。
長いけれど、時間があり余った小学生三人にはちょうどいい暇つぶしの道だ。柵も何もついていない水路を左に、自分たちの首元くらいまで伸びた草むらを右手に、わたしたちがめざすのは海。

浜辺にたどりつくのに何キロの道を何分くらい歩くのか、時計も携帯ももっていない小学生には見当がつかない。わかっているのは遠いということ。けれど夕飯の時間には家に戻れる距離だということ。
長くて、単調で、静かな道だ。
道端のエノコログサを抜いてだれかの首筋をくすがったりしながら、カホちゃんとサトちゃんとわたしはどうでもいいことをしゃべって歩く。

隣町には海水浴場があるのに、わたしたちの町の浜辺には何もなくて、ただ人気(ひとけ)ないベージュ色の砂浜が広がるだけだ。内海だから遠浅で波も小さくて、だから子どもだけで海に行ってくるねと言っても親たちはとやかく言わない。「六時には帰っておいで」と言うだけだ。

この内海一帯を、鏡のかけらを敷きつめたような海、と形容した若い作家がいる。
何年もあと、「なんだか湖みたいだね」とわたしに言うのは、太平洋の荒い波を知る東から来た人だ。
拍子抜けするほど穏やかな海がとくに美しいのは春先で、パンジーの鉢植えが花屋の店先に並ぶころ、わたしたちの海もまた冬からめざめ、暖色の光の粒を集めて揺れる布のようになる。そのころにはソックスを脱いで水に入っても大丈夫、もう凍えたりはしないはずだ。

水の中の足がとらえる砂はちょうど人肌くらいの温度で、足裏の動きに合わせて生きもののように自在にかたちを変える。しばらく立ち止まると足の甲が少しずつ砂に埋もれてゆくので、足が海に溶けてしまいそうな錯覚を起こす。だから水遊びはほどほどに、わたしは乾いた砂の上に散らばる桜貝を拾い集めることにするのだ。
それが海沿いの町に暮らす子どもの、春の午後の暇つぶし。

山に行ってみようと言い出したのはカホちゃんだ。
いちばん年上のカホちゃんは、かけっこが速くて頭が良くてしっかり者。カホちゃんはサトちゃんの二つ上のお姉さんで、わたしはちょうどそのあいだの歳。サトちゃんとわたしはいつもコバンザメみたいにカホちゃんのあとをくっついて歩く。

山、といってもたいした高さの山ではない。小学生には「山」なんだろうけど、大人にとってはあっというまに車で走り抜けてしまえるところ。隣町に抜けるトンネルのある、ただの小高い丘にすぎない。

そのトンネルまで行ってみよう。
と、自転車を押していたカホちゃんがいきなり言い出した。トンネルまではたぶん海に行くのと同じくらいの距離。休日の午後を持てあましている小学生にはじゅうぶん行ける距離だから、わたしたちは押していた自転車にまたがり「山」をめざす。

なぜ山を、トンネルを、めざすのか理由はわからない。言い出しっぺのカホちゃんにもわからないんじゃないだろうか。ただ行きたいから行くというだけで。
子どもの遊びに理由はない。というか、理由をつけてたら遊びではなくなってしまう。そんな理屈、当の本人たちは考えてもいないけれど。

トンネルまでの上り坂は急だ。
坂の三分の一くらいまではどうにか自転車を漕いで上るけど、そのうちペダルに載せた足がずんと重くなり、サトちゃんかわたしのどちらかが最初にギブアップする。二十インチと二十二インチの自転車を押して上る三人の脇をときおり車が追い越してゆく。わたしたちのそばを通るときは、うんとスピードを落として、うんとよけて走り過ぎる。

トンネルは長い。運動会の五十メートル走くらいに長い。
「こんなの全然長くないよ」
かけっこの速いカホちゃんにとっては短いんだろうけど、足の遅いわたしにとってはとても長くて暗いトンネルだ。暗いけれど、むこうには半月形の光が見えている。わたしたちは学校の花壇に咲く向日葵のように明るい光に向かっている。人間は光をめざす。人には走光性がある。もちろん小学生がそんな言葉を知るはずもないけれど。

トンネルを抜けると道は下り坂になり、はるか彼方に立ち並ぶ家々が見える。あそこが隣町。自転車を漕げば一気にたどり着ける距離なのに、カホちゃんは「行ってみよう」とは絶対に言わない。わたしたちのだれひとり、坂を下りてみようとは言わない。
ただ、坂のてっぺんでしばらく遠くを眺めているだけだ。
ここを下りてしまったら二度と家に帰れない気がして。

トンネルの脇の砂利だらけの空き地で遊んだあと、さっき上ってきた坂道に車がやってこないのを確認したら、わたしたちは一気に自転車で駆け下りる。魔女のキキになって疾走する。

やがて五年生になったわたしは日曜学校に通うようになる。
教会の日曜学校ではない。私鉄に十五分乗った駅にある、なんとか会館の大きな部屋で毎週日曜に開かれる教室のほうだ。
カホちゃんやサトちゃんと週末遊べなくなるのはつまらないけれど、かわりに町のデパートのサンリオショップでシールやメモ帳を買ってもらえるものだから、わたしはしぶしぶ母親と電車に乗り、退屈な勉強をしに出かけてゆく。

六年生のカホちゃんは最近、六年生の子とばかり遊んでいる。
平日学校から帰ってきたら、ときどきサトちゃんだけがわたしのところに遊びに来る。
わたしたちはもう海にもトンネルにも行かなくなり、近所の公園をぶらぶらするか、どちらかの家でかわいい文房具を見せ合って交換をするかして過ごす。

やがてカホちゃんは中学生になり、制服を着てテニスラケットを抱え、ひとりですたすた歩いて行くようになる。朝や夕方、近所で会ったら挨拶するけれど、二言三言ことばをかわしたら会話が続かない。話さないようにしているのではない。話すことがあまりないのだ。わたしたちにはもう共通の言葉がなくなりかけている。カホちゃんはわたしやサトちゃんとは違う世界の人になっている。
そして、中学という別世界にカホちゃんを取られてしまったわたしとサトちゃんも、しだいに遊ぶことが少なくなってゆく。
向かいに住んでいながら、少しずつ距離ができてゆく。

中学の教室は楽しくてつまらなくて、うるさくて辛辣だ。
目を凝らさなければ気づかないほど小さな文字で椅子の背に悪口が刻まれていたり。
ある男子のカバンがなぜか机の上に載っていて、なぜか「あいつに持ってってやんなよ」とボス格の女子がそれとなく言ってきたり。
いままで仲良くしていた子がいきなり無視して別の子と体育館まで歩いて行ってしまったり。
どうやらわたしは「猫かぶってる」と陰で言われているようで。
でもそんなこといちいち気にしていたら身がもたないから、わたしはひたすら鈍感でいるように努めている。少なくとも鈍感なふりをして、当たり障りのない子たちとひっそり教室で過ごしている。
鈍感になって卒業までやり過ごすことに決めたのだ。

一年後、わたしはカホちゃんと同じ高校に通い始める。
が、カホちゃんはわたしよりも一本早い電車に乗っている。たまにホームで会っても、長らく疎遠でいたから、かわす挨拶もぎこちない。そのうちそれぞれの友だちがホームに現れ、わたしたちは別々の車両に乗る。高校の一学年の差は、たぶん海やトンネルに行くよりもずっと遠い距離なのだ。

ある日、駅の改札を出たところで同じ中学だったボス格女子に偶然再会する。ボス格女子はふてぶてしさがすっかり消え失せて妙に大人びて見える。大人というかおばさんじみている。高校には行かず、近くの町のスーパーでアルバイトしているとかで、わたしの制服をまぶしそうに見ながら、「いいな、進学高」とぽつりと言う。うっすら笑ってバイバイと手を振り、くるりとこちらに向けた背中がどことなく寂しそう。

やがてカホちゃんは現役で地元の国立大学に合格し、高校の先生をめざし始める。
高校生になった妹のサトちゃんは、わたしとは反対側のホームから電車に乗って通うようになっている。
わたしはわたしで、英語だけでしゃべったりアメリカの話を聞いたりするために、昔アメリカで暮らしたことのある顔もしゃべりかたもガイジンのような主婦のもとに毎週通い始めている。
わたしたち三人は相変わらず光る何かに向かって歩いているのだろうけれど、見ている景色はたぶんひとりずつ違っている。

電車の窓から見える海には一面、鏡のかけらが散っている。
私はそれまでの三年間と同じ電車に乗っているけれど向かう方角は正反対。電車で一時間の都会の町にある予備校に通いだしている。
海沿いを走る電車は英単語の暗記場所だけど、灯台のあたりに来ると単語の本から目を上げ窓の外を見る。
海沿いの瀟洒な住宅のむこうに広がる海はいつも穏やかでまぶしい。

受けた大学に落ちたことを知らせに高校に出向いたら私の担任は電話の最中だった。
受話器を置いてこちらの姿を目に留めるや、ちょっと待ってて、と目と手で合図して、彼は職員室の黒板に何かを書き込み始めた。
「SはK大に決まり」
担任はよく通る声でそばにいる教師にそう言った。浪人が決定した生徒がすぐそばに立っているというのに。
私の胸中など察している暇はないのだろう。黒板にSの進学先を書き終えた担任は私の顔を見るや、ドライに効率的に予備校についての話に入っていった。
そういうふるまいに対して特にこれといった感情は湧かなかった。ああそういう人なんだ、と思っただけだった。落ちた生徒の真ん前で受かった生徒の名前を嬉々として言う大人。

予備校行きの電車では、一足先に大学生になった高校時代の友だちに会ったりもする。
突然化粧を始めた彼女の唇のピンク色がやたらに濃くて、ノーメイクの自分がなんだかとても子どもじみているように思えてくる。着ている服も高校生の延長みたいだし。
「彼がね」と出来たばかりのボーイフレンドについて彼女が話し始める。医大に通う五回生なんだ。同級生のお兄さんの友だち。
「へえそんな年上のひとと」
ますます彼女が大人に見えてくる。じゃあね、ときれいな色に塗った爪を光らせて、繁華街の二つ先の駅で彼女は降りてゆく。
私はさらに数駅満員電車に揺られ、閑静な住宅街が広がる町の駅で降りる。いまどき花売りのおばさんが歩いていたりする町を抜け、あくびしながら予備校の入口をくぐる。



あんな小さな町、早く出ていきたい。
私はもう山のトンネルを抜けた先の隣町にひとりで行くのなんか平気だし、そもそもトンネルじたいに興味がなくなっている。
いまの私には予備校のある大きな地方都市のほうが何倍も魅力的だ。
そして、それよりももっと東の、未知の大都市の大学生になりたくてしかたがない。

私は海を捨て東に向かおうとしている。


“キロメートルや光年といった単位の距離よりも大きく人と人を隔てるのは、変化によって生じる距離だ。”
  ドメニコ・スタルノーネ『靴ひも』(関口英子訳、新潮社)

こんなに言葉が溢れているなかから、選んで、読んでくださってありがとうございます! 他の人たちにもおすすめしていただけると嬉しいなあ。