CIVILIAN「吐きたい僕と世界のはなし」考察
そもそも何について書くのか…
CIVILIANによる【コンセプトワンマン】が開催されました。
そのタイトルを「吐きたい僕と世界のはなし」といいます。
ただのワンマンライブではなく、単なるライブですらなく。
それはひとつの映画でもあり、舞台や物語であったように思います。
実際、舞台のブザーからステージは始まるのでよりその印象が強かったです。
ワンマンライブは「僕編」と「世界編」の2日にわけて開催されました。
そのライブ前に公開された4回にわたる同名の連載小説があり、その世界観を音楽で表現し、ある意味で「完結させる」という内容のワンマンライブ。
小説はこちらから読むことができます。(読まないと以下意味不明かも)
小説を読んでいなくてもライブ演奏自体は楽しめるのですが
小説を読んだ上であれば、その曲が「僕」や「世界」の何を表現しているかがひしひしと感じられます。
あまりの感動に居ても立っても居られないので、私なりに「感じた」それをライブの内容を記すとともに考察していきたいと思います。
まずはそもそも2つのテーマに分かれている「僕」とは?「世界」とは?
「僕」というのはもちろんこの小説の主人公である「僕」であると読むことができます。
では「世界」とは、何が表現されていくのでしょうか。
そして、「僕」と「世界」に小説以上の結末があるのでしょうか。
1日目「僕編」ー冒頭
ライブは小説の最初の場面を思わせる山の中を歩くシーンの映像から始まります。
とは言っても人が写っているわけではなく歩いている人の視点で、地面や周りの木々が写っており、歩く人(つまり「僕」)の息切れや足音が入っています。
こういった映像が2日目の「世界編」では変わるように思っていたので、「僕」の「視点」でのライブというメタファーかな〜とか深読みしすぎていました…
そして映像にモノローグが流れます。
山路を登りながら、こう考えた。
映像から入っていたので、ここまででは「何の」文章か全く気付きませんでした。そして続きます。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
漱石やん!草枕やん!そしてちょっとだけ「なぜか」文章が飛ばされます。
(引用:青空文庫)
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせなばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。
そうして連載小説の冒頭部分がボーカルのコヤマさんによって朗読されます。
このライブは、映像、朗読と音楽の演奏で構成されます。
朗読があってそのシーンにリンクするように演奏があるという形です。
1日目「僕編」ー前半考察
音楽の演奏の始まりは「彗星」から。
音が出た瞬間に圧倒されるような空気に包まれました。
「いつまでもいつまでも同じところぐるぐると回って」で照明もスポットライトがぐるぐると回る演出。
「僕」のどこにも行けない閉塞感や山路のシーンからの閉塞感を一気に増幅させます。
「信じられないね」「AK」「アノニマス」と続き、やはり「僕」が、閉塞感でどんどん追い詰められていくような感覚を得ます。
特に印象的だったのは「AK」の「ひとつひとつ脱落していく」という歌詞。
世界に選ばれる「最後の一人」というキーワードを逆説的に捉えているように思えました。つまり「僕」にしてみれば「脱落」の側なのだと。
そして朗読。
連載第3回の「セットリストを考えておけよ」から始まる内容が読まれます。
このライブ自体がここのシーンで考えられた「セットリスト」の演奏であるという設定も相まって物語に引き込まれます。
父親への復讐で音楽を始めた話が朗読に入っていたのが、この後の展開から「僕編」ではキーになったとも感じました。
「僕」にとっての音楽、「復讐」としての音楽、そして父親の存在…
続いた5曲目は音源の未発表曲ですが、
ラップ調で捲し立てるような言葉で歌う曲調が
まるで「僕」が翔悟と話す態度を「早口だったかもしれない」と描かれたのと通じるように思えました。
そう、まるでその「セットリストを考えておけよ」と話していたそのシーンでもあったような、そういう「僕」の姿を描いていたように思ったのです。
続く「先生」で父親との確執を
「君から電話が来たよ」で「僕」が翔悟から連絡をもらう心境を
それぞれ感じながら、また朗読へ移行します。
1日目「僕編」ー後半考察
ここの朗読では連載4回目「いよいよ太陽が完全に姿を消し」から始まる小説の部分をところどころ飛ばしながら朗読されました。
「そのとき」が来たような感覚になる小説の箇所だと思います。
そこから「メシア」「境界線」「I」「音源未発表曲」と続く…
ここ…冷静に考察したいのだけど、私の地雷曲3連続だったのでまったく考察どころじゃありませんでした…泣きすぎて息できないかと思った…笑
ちょっとズルい考察の仕方をすると、
私にとって「メシア」「境界線」「I」が完全地雷なのは共通するものがあると思うのです。そもそも地雷で泣きまくるのはこの曲たちがひどく悲しくつらい過去を思い出させるからなのですが。
過去そして今、その暗さの中で見つける一筋の光のような、暗闇から一歩踏み出す瞬間を描いているような、そういった3曲なのです。
だからこそ私が何よりつらい時に出会い、それを瞬間的に思い出すまで聴き込み、心に力を得て光を見つけてきた3曲なのです。
ライブでも朗読含め、暗い過去の部分が今まで語られ、その要素が重く伝わってきたようにも思います。
朗読では語られていなかったけれども、特に「メシア」は前段で演奏された「先生」などの要素があって、父親との確執と生い立ちによる復讐心みたいなものにスポットライトが当たっているように思えました。
だからサビがより強く伝わります。
壁にあの人の写真貼って
何度も刺して 何度も刺して
死にやしないけど 死にやしないけど
それで許せたら良かったのに
でも曲の最後には光を見つけるのです。
その3曲に続いた「音源未発表曲」の内容は、ごく雑に要約すれば「世界でもしあなたと二人きりになったらきっと憎しみあってしまうから、今の世界で生きていく」というもの。
朗読の内容も曲もだんだん「僕」だけの視点から「僕」だけではなくそこにいる翔悟の存在を捉えたものに移行してきているように思いました。
朗読は連載4回目の「神様。」から連なる「僕」の独白に続きます。
翔悟を思い自分を後悔し、自分と世界を許さないという強い悲しみと憤りの内容へ。
その直後の「正解不正解」はアニメの主題歌だったためその印象が強かったのですが…この朗読でまったく印象の違うものになりました。
朗読の最後は「こんな世界を作った人間すべてを許さない」で締められました。
その上で歌われるサビのフレーズ。
超えていくのさ 残酷な世界を
誓い合った あの日の 儚い希望
蹴り上げてやれ 君の痛みを
ここから「世界の果て」までこうした「世界」への復讐をする「僕」が描かれます。「僕」は「僕」のことしか書かず他人がいないと言っていましたが、ここのパートでは「君」という「他人」の存在が強く感じられました。
それはおそらく「世界編」への布石でもあったのではないかと考えています。
1日目「僕編」ー結末考察
ラストの前に映像が流れました。
それを見て、ハッとしました。家に帰ってDVDで即座に確認したくらい。
前に同じく【コンセプトワンマン】をした時の映像に通じる、空の、雲の、映像だったのです。
超蛇足なのですが、前回のお話で空と雲の映像が流れるとき
「あなたは、まだ、どこへだっていけます。
まだ、なににだってなれます」
と語られます。ここまでくると、邪推や妄想でしかありませんがそれは「世界編」の結末につながっていたようにも思うのです。
そして朗読で語られたのは連載小説にはなかった「僕」のその後。
山路を歩いていた日から、どれくらい後かわからないけど…
そして映像でハッとした前回の【コンセプトワンマン】のタイトル曲でもあった「ディストーテッド・アガペー」が演奏されます。
「ディストーテッド・アガペー」にはこんなフレーズがあります。
何かを渡したいのだけど 何も渡せるものが無くて
仕方ないからこの身体を 細かく刻んで歌にしたよ
君がもしも望んでるなら どれでも好きなの拾ってよ
君の大嫌いなこの世界を いつまでもここで歌うから
ここにいるから
そして朗読された後日談にはこんな文章が。
今も暗い部屋の中で一人きりの、
僕と同じような誰かへ、
僕は暗号を音楽にして発信し続ける。
ここにいる、と。
この2箇所に不思議と共通する感覚があります。
自分と同じような人へ送っている音楽がある、ということ。
そして今在る現実を、ものすごく幸福とはいかないまでも「肯定している」感覚。
そう「僕」は父親やいろんなものに傷つけられ世界に選ばれたのではないけれど
君のおかげでそれを肯定し、「僕」は「ここにいる」という何かが開けた形で結末を迎えました…
それが「僕編」だったのだと思います。
1日目「僕編」ー冊子版
実は小説がグッズで冊子版が販売され「特別版」の物語が収録されています。
「僕編」の冊子版にはライブ中にあった「僕」の後日談が書いてあり、そして翔悟のことも書いてありました。
先に書きましたが「世界編」の布石として「僕」しかいなかったのが「君」もいる…と変化していった。ライブの朗読ではなかったシーンとして、「僕編」と「世界編」の間にあるこの冊子版に翔悟の話が出てくる。
同じ流れになっているように思いました。
やはり「世界編」への繋がりを感じたのです。
2日目「世界編」ー考察内容の考察
まず2日目に表現される「世界」とはなんなのか…
それを突き止めなければなりません。
ライブでその「答え」が提示されるのか、「世界」視点での「はなし」とは一体何なのか。
視点という点ではよっぽど「僕編」の方がわかりやすいのです。
1日目のライブで表現されていたのは、一言で言えば、小説の語り部である「僕」の内面を深く掘り下げていき、「僕」が変わっていく話でした。
そう、その分「世界」とはなんなのか…
「世界」の正体に物語の「謎」と「キモ」があるように私は思っていました。
最初は単純に「僕」と翔悟の対比のみで「世界編」とは翔悟の話なのではないかと想像していました。そのため私は勝手に「世界編」では朗読される内容も翔悟視点に変わるものと思い込んでいたのです。
しかし映像も同じ、朗読もすべて小説の同じ箇所でした。それは「僕」の話でしかありません。
ではいよいよ「世界」とはなんなのか?
違っていたのは、演奏された曲のみ。(若干曲順の違うものもあり)
つまり「僕」ではなく「世界」の表現とは、変わった曲の中にあるのではないか…というのが普通の考え方です。
というわけで、一般的に考えれば「僕編」から変わった曲を考察するのだろうけど…
それだけではなく変わったセットリストによって「同じ曲の感じ方がどう違ったか」も大事なのではないか?と強く思ったのです。
それは「曲単体だけが何かを作り上げているのではない」というのが
このCIVILIANによる【コンセプトワンマン】の最大の魅力と捉えているからです。
2日目「世界編」ー前半考察
1曲目からセットリストは変わっていて「世界編」は「一般生命論」から始まります。冒頭の歌詞にこんなフレーズがあります。
いま僕の掌に僕とあなたの命があったとしまして
これの価値どんだけあんの 5分で答えて
よーい スタート
先にも書きましたが、1日目はとことん「僕」を掘り下げていく内容でした。
後半ではだんだんと翔悟の存在が強くなっていきますが
「世界編」では最初から「僕とあなたの命」と「あなた」が「比較対象」として生まれます。
この「あなた」(=小説で語られる存在としては「翔悟」)の存在があることで「世界」はどうなるのか…
続く「デッドマンズメランコリア」では「あるはずなんだ俺には 他の誰とも違う才能が」と音楽を作ることにフォーカスされます。
「LOVE/HATE/DRAMA」では「混乱と熱に浮かされて さあ 今舞台に立て!」と言ってライブに誘われるシーンに雪崩れ込んだように思いました。
実は1〜7曲目までで同じだった曲は、「僕編」で5曲目に演奏され「世界編」でこの次、4曲目に演奏されたラップ調の新曲のみ。
これは「僕編」の考察に「僕」が翔悟と話す「早口だったかもしれない」というシーンに思えた、と書きました。ここで「僕」は翔悟と話をしているのです。
ここまで見てきた1〜4曲目だけでも「僕」と翔悟、そして音楽を作るということに主題が置かれているように感じます。
そしてライブに誘われた後のシーンである「セットリストを考えておけよ」の朗読へ続きます。
不思議なことに4曲目と5曲目の間に朗読された小説では「僕の音楽には他人がいない」と言っています。
それにもかかわらず、5〜7曲目すべてに「あなた」との関係性や大切に思う姿勢が出てくる選曲になっていました…
5曲目は音源未発表曲なので詳細が書けませんが
そこに続く「あなたのこと」は「いつか思い出せなくなる前に あなたのことを全部書いておこう」と歌い
「セントエルモ」では「何故あの時出会ってしまったの/いつか笑い合った記憶に/首を締められるなら/どうして皆生きていられるの」と歌います。
そうなってくると「僕の音楽には他人がいない」と言う「僕」の歌なのだろうか?と疑問になります。それとも「翔悟」の歌なのだろうか?
ライブの構成から単純に歌であるとは限らず、そう捉えないのであれば何の表現だろうか?
そもそも1〜4曲目まで「僕」と翔悟の物語を追っていたのです。当然その二人の物語の続きだと捉えるのが筋でしょう…
つまり翔悟が有名になっていき、ふたりが疎遠になっていくシーンなのでしょう。
だから「いつか思い出せなくなる前に」だし、その中で相手のことを思って苦しくなるのです。そして「ずっと消えない光/消えてくれない光」と歌われます。
1〜4曲目では外観的なストーリーを追い、5〜7曲目で内面的なストーリーを追う。そのストーリーは間違いなく「僕」と翔悟の物語です。
「僕」にとって翔悟がいたからこそ生まれたストーリーなのです。
2日目「世界編」ー「メシア」考察
そして「そのとき」に向かう部分の朗読。
「僕」の翔悟への気持ちが高まったところで一番苦しいシーンになっていく。
「世界編」で語られる内容が「僕」と「あなた(翔悟)」の関係の物語になることで、この後の「メシア」の聞こえ方が大きく変わったと思います。
「僕編」では書いた通り「僕」の内面を深く掘り下げた結果、
ステージでは語られていなかったけれども父親との確執や「僕」の閉塞感にスポットライトが当たっていました。
そのため「メシア」でもサビの「あの人」を「僕」の父親に擬える方に重きがあったように思います。
対して「世界編」では「あなた」の存在が強烈に印象付けられてきていて、翔悟との物語を丁寧に描いてきた。
だからこそ「メシア」のラストフレーズがいつも以上に刺さってきました。
他でもないあなたがわらったこと
それで僕の世界は 救われたんだよ
本当さ
出てきた「世界」…
ふたりの関係性が描かれ切った先に「あなた」に「僕」の「世界」が救われる。
2日目「世界編」ー後半考察
演奏は、そんな「メシア」に続きここにしようと決め、そうして穴を掘り始めたであろう心境が続きます。
誰もが独りだろう それは解っているんだろう
それでも笑うんだろう だから愛しいんだろう
「ヒトリ」
私が最後に守ったのは
私が最後に守れたのは
あなたの手ではなかったんだ
ごめんね さよなら
さよなら
「I」
そして演奏される「人間だもの」
これも音源未発表なので歌詞の詳細をしっかりわからないのですが。
ラストのひとフレーズが衝撃で「本当にそれで人間なんですか?」と問うような否定するような一言で終わります。
そして朗読される「神様。」という独白。
どんどん「僕」の翔悟への気持ちが表現されていきます。
みなさま演奏に興奮して手を挙げていましたが、私はこのシーンで「僕」の気持ちを想像しただけで悲しく苦しく痛みすら感じて、身動きひとつ取れませんでした。
だからこそ、その後の「正解不正解」は「僕編」でも感じたサビのフレーズがより強く響いてきます。
超えていくのさ 残酷な世界を
そう「僕編」で感じていたような単なる復讐ではなく、許さないと言った「世界」を「超えていく」のです。
そして圧巻だったのは「世界の果て」
すべての歌詞を書いてぜんぶに解説つけたいくらい「世界編」のハイライトとして描かれます。
まぁ、そんな無粋はできないので曲を聞いてください…
抜粋で特にというところでいえば
息を吸って 自動で吐いて 未だに生きていられる僕らだ
というサビは連載小説のラストシーン…すら思い起こされます。
ラストの歌詞で「僕」は辿り着きます。
どうせ誰もが皆一人なら
君と一緒に
ふたりの関係を描き、それをメシアで救われたと表現し、さよならと別れをつげ、それを神様になぜと問いかけ…
「君と一緒に」にたどり着いたのです。
それは「世界編」と題された中の「世界の果て」なのです。
もう感動の震えが止まりません。
2日目「世界編」ー結末考察
そのハイライトを迎え、「僕編」と同じくラストの曲の前に連載小説では語られなかった「僕」のその後が語られます。
最後の文章を聞いたときにすぐに曲がわかりました。
玄関のドアを開ける。晴れた日の陽の光が、とても眩しかった。
なぜだろう。
「僕編」では感じなかったのに、確信を持って最後の曲が「明日もし晴れたら」だと感じたのです。
「明日もし晴れたら」という曲は、「明日もし晴れたら 外に買い物でも行って」というありふれた日常の一コマから自分自身の在り方を問い、そして希望に変えていく視野の広がりの素晴らしい曲です。
そしてたどり着くその希望に「世界」の答えがある、そんな直感を抱きました。
が、こういう時にすぐに歌詞が出てこないのが私…
演奏が進んでいけば自ずとそれを感じられると思ったので、焦らず音楽を楽しみます。
そしてその私が思っていた希望の歌詞の部分が歌われます。
正直、全身が泡立ちました。
楽しそうな笑い声 窓から見えた世界は今日も
壁を隔てた向こう側 僕とは違った 君とも違った 新しい世界さ
間違いなく演奏も「新しい世界さ」を強調していたのです。
小説のラストシーンは「晴れた日」にいるのです。
それは「明日もし晴れたら」の「明日」であり、その中で「玄関のドアを開けた」のです。
楽しそうな笑い声の、新しい世界の。
2日目「世界編」ー冊子版
唯一、連載小説でもライブでもまったく語られなかった謎がひとつ、残っていました。
翔悟から受け取った手紙の内容です。
それが「世界編」の冊子版の「特別編」でした。
「明日もし晴れたら」の「君とも違った 新しい世界さ」に少し違和感があったのも、この手紙ですべて解決しました。
そうしてすべての物語が語られ、終わりました。
全体考察
ごく単純化して話せば「僕編」は「僕」ひとりの物語であり
「世界編」は「僕」の翔悟がいる「世界」での物語であったと思います。
さて、グッズで販売された冊子版の「あとがき」に、こんな箇所があります。
”越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせなばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る"
と夏目漱石は言いました。
この本に載っているのは、使命の話です。
「使命」の話ということを少し掘り下げるには、夏目漱石がどういう文脈で「使命」と言ったかを確認する必要があります。
最初に書きましたが、漱石の引用はライブ冒頭のモノローグで読まれています。
ですが、漱石の文章は冒頭とこの部分の間にライブでも語られなかった部分があります。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。(夏目漱石「草枕」ー出典:青空文庫)
生きづらさを抱えた「僕」と友達の翔悟が「音楽」という「使命」を背負う話。
まさに漱石が書いたこの文章が二人の物語になっているのではと思ってしまいます。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。
この箇所に通じる独白が小説でも書かれています。
世界を作ったのは神ではない。
僕であり、翔悟であり、人間だ。
だから僕は、僕を許さない。
こんな世界を作った人間すべてを許さない。
これはライブ中にも、小説の引用としてはラストに当たる朗読で語られます。
こんな世界を作った人間すべてを許さない。
そこから「僕編」では、自分を肯定し「僕」は「ここにいる」という結末を。
そして「世界編」では「新しい世界」にいる結末をライブで提示しているのです。
そう、そしてこれは「使命」のはなし。
漱石の言う「越す事のならぬ世」が「世界」だとしたら、「新しい世界」とは?
「住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせなばならぬ」それを果たしたのが「新しい世界」なのでは。
そのために「ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る」
「僕」にとっての「使命」は「音楽」だった。
だからこそ「新しい世界」で「僕」は「音楽を作る」のです。
そうやって「使命」が降る物語だったのだと「吐きたい僕と世界のはなし」を考えました。
++++++
私もまた「使命」として
絵を描き、ものを作り「束の間でも住みよく」しようともがく身だからこそ
そうしてここまで深く感動し
こんな長々と考察を書かせていただきました。
漱石は「使命が降る。」の次にこうしたためています。
あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
CIVILIANもまた「人の世を長閑にし、人の心を豊かに」したのだと思います。
少なくとも私にとっては。
すばらしいものを…
連載小説から始まり、表現されたものすべてにおいて、
こんなにすばらしいものを
本当にありがとうございました。
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読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。