街のひとたち1
新生活の場所は賑やかな場所だった。 徒歩圏内で個人カフェやスタバ、ドトールなどなど選ばなければ店は結構あった。でも憩いとなる場所は自分の相性が大切になるので行く場所は徐々に限定されていった。
その頃に出会った人のはなし。
私が鬱になって家に閉じこもり生活で時間は無限大。 一応病気なので外へ出るのことが苦痛だった。 別に無理して外に出ることもないのだけれど、外へ出る行為をしないとどんどん底なし沼のごとく沈み、気持ちはどんどん暗くなり出口が見えなくなる日々だったので、頑張って外の空気に当たりに行くだけで気分はほんのちょっと変わる。それを頑張った分救われた気持ちになった。
この時期はカフェの店員さんに優しい接客に本当に癒されていた。 毎日ではないが力を振り絞って外へ出て行く。
近所にフラワーという男性のオーナーがやっているスタイリッシュなカフェがあった。ランチには具沢山のホットサンドやタコライスをよく食べた。お茶の時はiliyのコーヒー、コーヒーを頼むとキスチョコが添えられている。雑誌もおいてある。そのフラワーの素晴らしいところはトイレが広く白い空間でとても清潔であったことだ。白いタイルに敷き詰められた空間でトイレが一つの部屋のようだった。
寡黙で微笑んでいるような無表情のオーナーで後ろに目がついてるんじゃないかと思うくらいの気配りが素晴らしかった。常連さんもいらっしゃったが付かず離れずの距離感で客の空間に入り込んでくることはなく、しかし少し喋りたいなと思うときはやや物足りなさがあったくらい。
他のスタッフは可愛いお嬢さんばかりで、気遣いもしっかりしていてやさしく可愛い笑顔に癒されたものだ。
2年近くに渡る療養期間であったため、私もいつしか常連となった。そうなるとスタッフの女の子たちとの会話も徐々に増えていき自然と仲良くなっていった。中でもえっちゃんともとちゃんというスタッフの子とは少しずつ 個人的な他愛のない会話が増えていった。彼女たちも私に興味を持ってくれているらしく、私という客の存在を癒しと言ってくれた。なんとなく言われてることはわかる。看護師も癒される患者は存在するからだ。
他愛のない会話の中で、私はうっかり鬱で休んでいると言ってしまった。 でもえっちゃんももとちゃんも「鬱」という私の告白を何の偏見もなく受け止めてくれた、受け止めたというより自然に受け入れているという感じだった。私より10歳以上も年下なのに。私は彼女たちの自然な優しさに当時本当に救われていた。
ある日、えっちゃんが前の職場でのストレスで突然腕が麻痺したように動かなくなったことを話してくれた。もちろん彼女は勤務中だからほんの短い会話だったけれど、私は少し考えて「もし失礼でなければその話を聞かせてもらえませんか」と言ってみると彼女は気持ちよく快諾してくれ、彼女の仕事が終わったあと近くのスタバで待ち合わせして1時間くらい当時の話しやどんな風に回復していったかなどを私に話してくれたのだ。私の状況についても怪訝な顔一つせず聞いてくれていた。お店のお客と個人的に会うということが彼女の重荷になっていないかと心配して聞いてみたが、彼女はいつもと変わらない優しい表情で「そんなことはないから気にしないでほしい」と言ってくれた。はじめは彼女がその状況をどうやって克服したのかを聞きたくてお誘いしたのだが、私は彼女の自然な優しさにただただ感動した。 その後も私はカフェの常連としていつものように通い、えっちゃんもいつものように接してくれた。彼女は実年齢より上に見えるほどしっかりしたお嬢さんで上に見えるから老けているというのでは全くなく、肌が綺麗なおしゃれさんだった。
もう一人のもとちゃんはえっちゃんより少し上で、私はえっちゃんの方が年上だと思っていた。もとちゃんの笑顔はあどけない少女のようで、えっちゃんと同様にしっかりしたお嬢さんだった。程なくしてフラワーから支店を出すことになりもとちゃんはその店に異動することになった。異動先のお店も近所だったのでよくランチに行った。異動先のシェフはもとちゃんのご主人だったので自然とご主人とも仲良くなった。私は人がいなそうな時間を見てお店に行ったので食後のコーヒーを飲みながらもとちゃんとたくさんおしゃべりをした。少し迷惑な客だったかもしれない。そういう縁から私はもとちゃんと話すこと多くなっていった。もとちゃんもえっちゃんと同様、私の鬱を私の一部のごとく接してくれ、ご主人ももとちゃんも鬱に対する偏見は全くないようだった。 そもそも他人に偏見を持つような人たちでははないのだ。 数年たち、もとちゃんのご主人が独立することになり、閉店パーティーを企画され限られた常連客という中に私たち夫婦を招待してくれた。そして新しいお店の開店パーティーへも招待していただいた、とても楽しい時間を過ごした。
もとちゃんの独立の前に、えっちゃんがカフェを辞めるいう悲しい知らせがあった。本当に悲しかった。どれだけえっちゃんの笑顔が私の救いだったか。いつ辞めるのかという正確な日にちは知らなかったが、少しでもえっちゃんの働く姿を見たいと思い毎日ではないが通った。たまたま行った日が最後だったのか、私に渡したいものがあると小さな箱をくれた。お世話になったお礼だという。私は何も用意する頭がなくただただ恐縮した。 その時に、私が客としてくることが癒しだったという言葉までプレゼントしてくれた。えっちゃんへの小さなプレゼントを考えもしなかった自分を反省した。そしてえっちゃんは卒業し、えっちゃんももとちゃんもいないフラワーは個人的にさみしい場所になり、寡黙で優しい無表情のオーナーはいつもと変わりなかった。私とえっちゃんともとちゃんの交流もオーナーは知っていたと思う。それを遠くから、寡黙で優しい無表情の顔で見守っていたのかもしれない。というより、自分のスタッフを信頼していたのだろう。
そしてもとちゃんに赤ちゃんが生まれた。私はもとちゃんにお祝いを渡すためにデパートのカフェで待ち合わせして赤ちゃんと対面した。その後、もとちゃんがうちに来ませんかとの誘いを受けお邪魔した。もはや客ではなく友達になっていた。それからもとちゃん家族は様々な事情により実家がある南へ引っ越していった。
なかなか遠いのでヒョイっといける距離でなく、もとちゃん夫婦のお店が私の拠り所だったので悲しみ倍増。ご主人の作る料理はどれも絶品で中でもレバーパテは最高であり、今もどこかの店に入りレバーパテがメニューにあると注文する私だが未だにもとちゃんのご主人を超えるレバーパテに出会っっていない。
当時、鬱と診断され療養していたが定期的に職場に顔を出さなくてはならず、その空気はとても居心地の悪いものだった。その度にプチ心理療法のように延々と話をされ苦痛だった。言葉では弱いとは言わなかったが鬱は弱い人がなる病気と言われているような気分だった。
医療者からそういう扱いをされていたのに、ただの客として出会い友達と発展した年下のえっちゃんともとちゃんは、私が鬱だからちょっと距離を置いておこうみたいな感じが全くなかった。
今でも交流は続いている。
もとちゃんは英気を養うために南から遊びにきたときに、会いたい人リストに私を加えてくれた。えっちゃんの新しい職場をもとちゃんから聞き、えっちゃんの新しい職場にコーヒーを飲み行ったりしている。数年に1回とかだけど。
そうやって、付かず離れずの距離で10年以上たった今でも彼女たちと友達でいる。
私はこれを奇跡だと思っている。
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