身体の無理と、心の無理と、人を頼れないこと

昨日意図せず早起きして、大根おろしに生姜を大量に入れたうどんをガツガツ食べ、コーヒーを飲みながら朝井リョウさんの「何者」を読み切り、続け様に窪美澄さんの「じっと手を見る」を読み始めた朝7時。朝の時点で色々とめちゃくちゃである。

先日受けた健康診断で身長は安定の170弱、体重は少し戻ったかなぁと思ったら50キロを切っていた。ほんと、痩せていていいことなんてない。身体に力は入らない、体調を崩しやすい、免疫下がりやすい。特に私の場合は、健康的に痩せてるのではなく、運動しているわけでも、食事制限をするでもなく、普通に過ごしていて痩せていく。やっぱり病気なのかなと思いつつ、健診結果は痩せすぎ以外はオールAだった。頑丈である。

先日も書いたけど、私は人よりも無理ができる身体である。貧血で目の前が真っ白(世間的には真っ黒というのか)になってもしばらくは立っていられる。捻挫して杖をつくくらいの状態の足で4時間くらい過ごして、最終的に救急車を呼ばれたことがある。扇風機で指を切ったとき、深く切りすぎて溢れる血を押さえて普通に過ごしていたら、病院に強制的に送られたこともある。

ろくでもないエピソードばかりだけど、人に話すたびにドン引きされる。痛みに鈍感なのではなくて、たぶん痛みに耐えられるタイプなのだと思う。だからタチが悪い。痛いし、辛いし、苦しくてもそのまま過ごせる。そして限界の直前または超えたところで人を頼るか、倒れるか、最悪そのまま気を失う。迷惑な人間である。

心の方も無理をしがちと言われる。最近仕事ではしなくなったというか発散の仕方を覚えたので減ったけど、母や友人や、最近だとBさんとの関係において、無理とは違う、無理したくないから相手が嫌がることをして遠ざける傾向にある。とんでもない奴である。

心の方も何だかんだと溜め込んで溜め込んで爆発というか急に限界を超えてショートすることが多い。身体も心もこんな感じでやってるから周りからしたら危ういと思われて当然である。

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人を頼れないって悪いことなのだろうか、とここ数日ぐるぐると考えている。良くはなさそうだけど、悪いのかは分からないし、かといって悪いことだと受け入れられない。自立とのバランスなのだと思う。自立は依存先を増やすことってそういうことだと思う。

子どもの頃、電車の中で疲れて具合が悪くなり、座りたいと母親に訴えた時、前に座っていた自分より小さい子が席を譲ってくれたことがあった。お礼を言って座らせてもらったが、その場で母に「自分より小さい子を立たせて自分が座って恥ずかしくないの?信じられない」というような言葉を言われた。何も言い返せなかった。

こんな感じのエピソードが小学生くらいまでに色々あって、だいぶ忘れてしまったけど確実に自分の中に残っていて、頼る=助けてもらえるけど否定される、みたいな方程式ができてしまったのだと思う。誰かに助けてほしいと言いたくてもブレーキがかかるとき、私は電車でのこの出来事をよく思い出す。

元夫には頼り過ぎていた。そして助けてくれるのが当たり前だと思っていた私は、その当たり前がされなかったときに心を乱していた。そしてどんどんと依存が進んでいった。一度、家で一人で過呼吸を起こした時、頼むから帰ってきてほしい、帰ってこれないならだれかを呼んでほしいと頼んだけど、その前に口論をしてうんざりしていたであろう元夫は、帰ってこなかった。今まで体験した過呼吸で一番ひどかったとき、私は一人だった。元夫は夜中に帰ってきて何度も何度も申し訳なかったと謝った。でも悪いのは私だった。

依存して、何でも元夫に頼ればいいと思い込んでいた自分が悪かった。でも、このときに助けに来てもらえなかった経験は思った以上に自分の中で大きく消化不良を起こしていて、極限まで頼ってはいけないと自分の中で勝手に正当化していたと思う。

どこかにうっすらと、私は人を頼る価値もない人間なんだって、そういう気持ちがずっとある。だから一人でいた方がいいと。誰かと一緒にいたら迷惑がかかるから。今もその気持ちには大きな変化がない。そして頼る方法がやっぱり分からない。

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こんな暗い内容書いておきながら意外と心は平常心。久々に読書をしているからだと思う。

小説は物語は私の心にすっと沁みてくれる。考えを整理するきっかけをくれたり、反対に考えることをやめるきっかけとなったり。やっぱり小説が好き。物語が好き。知識や糧となるハウツー本より、私は小説が好き。誰にも邪魔させん。

もはや無理をするとか人を頼る話と一切関係なくなった。こんなもんさね。