デジタルピアノをめぐって―2台デジタルピアノ演奏会『白と黒で』への寄稿
本稿は、2024年2月25日(日)に開催される、2台のデジタルピアノによる演奏会「白と黒で」本公演に寄せた文章である。2018年に筆者が東京大学美学芸術学研究室で執筆した卒業論文《テクノロジーによるスキルの代替が音楽演奏の定義に及ぼす哲学的問題―ゴドロヴィッチの演奏論を中心に―》における議論を、本公演における状況に照らし合わせて発展させた試論を含む。なお、本稿は来場者に配布されるプログラム冊子にも掲載される。
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2024/2/25 14:00-/18:00-中目黒
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『問・完全なシンセサイザーは楽器なのか?』
これは、私が音楽演奏とそのスキル、テクノロジーとの関連について考察した、大学の卒業論文[i]において投げかけた問いである。この問いのもと、論文においては楽器の変更や代替的手段による演奏代行、あるいは演奏者の喪失といった、演奏における「スキルの不在や欠如」の事例をとりあげた。これは、スキルに基づかない音現象を「非-演奏」として排除しなければならないのか?という問題意識に基づいている。
ピアノ以外の様々な楽器の音を有し、1台で自動演奏が可能な「完全なシンセサイザー」がこの際には題材になったわけであるが、今回は「スピーカーを接続したデジタルピアノにおけるクラシック演奏」が新たな検討対象となる。
今回の状況を整理してみよう。2台のデジタルピアノをスピーカーに接続して音を聴衆へと届ける。具体的には「CASIO PX-160/Electro-Voice EVERSE8」の組み合わせである。この2種類の工業製品に加え、重要なファクターが音響制作の存在だ。打鍵によって与えられた物理的衝撃は、2枚の鍵盤を伝って電気的信号となり、そのバランスは音響制作者によって調整され、4つのスピーカーから実際の音として鳴らされる。『デジタルピアノを用い、音響制作やスピーカーを介した音現象』は、果たしてクラシック音楽の真正[ii]な演奏楽器として受け入れられるものなのか?
デジタルピアノは制度を破壊しない
冒頭の問い、『問・完全なシンセサイザーは楽器か?』は、このような議題へと発展する。「本来Aという楽器で演奏されると作曲者が想定した作品Xの演奏を楽器Bによって代替が可能か」今回の状況に照らし合わせるなら、「グランドピアノをデジタルピアノで代替が可能か?」ということになる。クラシックに限れば、演奏は美的価値を求める行為であると一般的に言える。したがって演奏では少なくとも作品Xの美的価値を高める必要がある。また、楽器の選択においては、代替可能であるというだけでなく、その観点で「積極的に」採択される理由を有していなければならない。
ここでゴドロヴィッチ[iii]が提案した「機能的優越」という概念を考えてみよう。楽器Aが楽器Bに対して機能的優越をする条件は以下である。[iv]
AがB以上の結果を生む
AがBよりも簡便に結果を達成できる
Aは予期せぬ結果を生むリスクがない
たしかに機能的優越すらない代替手段は自然淘汰されるだろう。電子楽器メーカーが取り組んできた命題はまさにこの「機能的優越」にほかならない。楽器カタログの後ろには詳細なスペック表が記載され、より高スペックな楽器が開発され続けている。しかしそこでいわれる機能的な優越=「グランドピアノへの近似」であって、グランドピアノの代替手段として優越すべき電子楽器が、なぜか元々のグランドピアノに近づこうとしている、という倒錯が起きていることは憂慮すべきだろう。私が提示したい機能的優越とは、電子楽器メーカーが追い求めるグランドピアノへの近似などではなく、ピッチや音響の安定性や均質性、調律が不要であること、持ち運びできることであると付言しておきたい。
このような倒錯が起きる事情は、クラシック音楽の演奏コミュニティ[v]への配慮があると思われる。楽器が選ばれるには、機能性だけではなくて、「それが既存の演奏コミュニティを破壊しないか」という社会的な配慮が関係する。音楽演奏は、作品の制作やその評価において、結果ではなく過程もが査定対象となり、多くの伝統芸能などと同じように、「わざ」にその本質を持ち、それを序列化し価値評価することで存続してきた。換言すれば、クラシックの音楽演奏とは、演奏コミュニティの教育を通じて、社会的に培われて洗練された技能によって遂行されるべき領域だ。そのジャンルにおいて楽器の改良が許されるのは、
スキル獲得に対して既存楽器と同程度の需要があること
スキルを得るために既存楽器と同等の努力が必要となること
ヴィルトゥオーソ、熟練者、初心者のヒエラルキーの割合が維持されること[vi]
の3点が保証されるときのみであるとゴドロヴィッチは主張する。
アコースティックピアノの先生がしばしば口にするこのような言説は、一見電子ピアノをおとしめる言説のように見えるが、実のところ違う。電子ピアノの表面的な簡便さゆえに、「アコースティックピアノ奏者」としてのアイデンティティ、そして演奏コミュニティのヒエラルキーが崩壊するのではないか、電子ピアノがグランドピアノを駆逐してしまうのではないかという恐怖心からきている。このように懸念するアコースティック奏者は、デジタルピアノやその演奏テクニックのありようを正しく認識すれば、デジタルピアノは、決して「アコースティックピアノを塗り替えてしまう」ことはないことを理解すべきである。
たしかにデジタルピアノは安く簡便に演奏を仕上げることを可能にする。しかし、演奏コミュニティの内部の事情を鑑みれば、ごくわずかなヴィルトゥオーソ以外の熟練者や初心者にとっても、スキル獲得に対しての需要があったためにこそ、模造品としての電子楽器が好まれたのであり、コンピューター音楽における事情とは違って、デジタルピアノは完全なる外部領域からの侵略者ではない。
歴史を紐解けば、世界最初の電子ピアノは1960年代に入ってから制作された。「アレル・オルガン・カンパニー」が発表したRMIエレクトラピアノであるが、これは「エレクトリックピアノ」に分類される。[vii]その後1973年には現在の電子ピアノの原型となるピアノをRoland社が開発し、YAMAHA社などの楽器メーカー、もともとは時計や電卓を扱っていたCASIO社などが後に続く。エレクトラピアノも、原型はピアノ楽器メーカーによるものであり、たしかにクラシック音楽界から始まったものではないにせよ、やはり演奏コミュニティと密接に関連した内部の要請をもとにした楽器の改良であることは明らかだ。それを公式演奏の場でのステージ用楽器として用いることは、既存のアコースティック楽器を塗り替えてしまうことにはつながらないと思われる。演奏コミュニティのヒエラルキーの低層にいる電子楽器使用者を活性化させ、コミュニティをより一層強化することになるはずだと考える。
したがってデジタルピアノは、
(1)グランドピアノに対して[viii]機能的優越をもたらす、優れた代替手段でありながらも、
(2)コミュニティの内部から適切に改良されており、演奏コミュニティの伝統や、ピアノ業界の熟練スキルのヒエラルキーに対しても逆らわない
という二面性を備えた楽器であるといえる。
「ツール」と「マシーン」
楽器、それはツールであり、身体の延長である。楽器が「ツール」になるとき、演奏者に大きな主導権がある。一方、内部に複雑性を持つ「マシーン」としての性格をも持ち合わせている。ここでいう「マシーン」とは、工業製品や機械のような機構を持っているという意味とは違い、直接的にアウトプットを操作することのできない、ブラックボックス化された自己生成プロセスをもつということである。
デジタルピアノのみならず、アコースティック楽器においても、「ツール」的側面と「マシーン」的側面は同居している。ピアノ奏者からすれば、アコースティックピアノですら、聴衆の想像以上に「マシーン」性を備えている。演奏者の想像する音と実際に楽器が放つ音には、かなりの乖離があり、慣れない空間で慣れない楽器を使う場合には、未知のファクターが増える。そこでは、おのずと音は楽器の自己生成に任せなければならない。演奏者は、この予期不可能性に圧倒されることもある。自分の楽器を持ち運びできないピアニストは、特に長年この問題と闘ってきたが、この「所与の楽器へ対応してゆくこと」自体が、音楽的に豊かな営みであるといえるだろうか?ほかの楽器奏者が慣れ親しんだ自分の楽器を使えることに対してピアニストが抱えるディスアドバンテージ。これを乗り越えることが、果たして演奏の美的価値の向上に寄与しているといえるのだろうか?
デジタルピアノや、それにつながれたスピーカーを見ると、一見工業製品としての性格が強まっているかのようにみえる。見た通り、それは家電製品のごとき「マシーン」である。今回のような「スピーカーつきデジタルピアノ」を考えてみたときにはどうだろうか。マシーンを用いているにもかかわらず、明らかにこれは「ツール」のような楽器に近づいているのである。楽器の出力は、スピーカーの設定や音域バランスなど、こまごまとしたパラメーターによって調整される。客席全体での聴こえ方を意識して、事前に修正をする度合いはアコースティックの演奏会の比ではない。
たとえば、今回の演奏会では「没入感を最優先する音響」がオタイオーディオ(電子ピアノ専門店otto)と、ボッシュセキュリティシステムズ(エレクトロボイス)のスタッフたちの手腕によって作り上げられている。デジタルピアノ自体にあらかじめプリセットされたトーン(音色)から選択し演奏する。音響職人の手による徹底したアナログ的微調整を頼りに、演奏者と職人が共同しながら制作する演奏会。先鋭化した「マシーン」が「ツール」になるとき、ピアニストのスキルがどのように伝わるのかは、残された疑問であり、課題である。
20世紀という時代 −楽器とテクノロジーへの応答
コンピューター音楽の登場がもたらした楽器とテクノロジーの関係性について、批評家の佐々木敦[ix]はこのように述べている。
つまり、テクノロジーは外在的に芸術作品制作の現場に迫り、音楽の「制度」を破壊しようとした。コンピューター音楽の分野では、制作者はその特性を逆手にとって利用し、単なる演奏代替のツールとしてではなく、既存の演奏コミュニティとは独立した分野を開拓した。その独立性のおかげで、西洋音楽の根幹をなす「歴史=制度」は、ひとまず取り込まれて解体されることはなかった。しかし、今回においては「デジタル楽器でクラシック音楽を公開演奏する」という点で、コンピューター音楽で起きた事象とは違う。アコースティックで埋め尽くされてきた「歴史=制度」の中に、白昼堂々デジタルテクノロジーを持ち込むという、越境的な営みである。
デジタルテクノロジーは強力にクラシック音楽にも襲い掛かる。デジタル技術の到来を考えれば、すでに50年以上前から襲い掛かっているが、演奏者はもちろん、聴取者のほうも、それに真正面から応答せずにいた(あるいは反発、拒絶していた)。ピアノ演奏を主体とした公演では、20世紀以降や現代音楽のレパートリーを扱う場合であっても「コンサートホール」において、「グランドピアノ」での演奏を行うことが通例だ。
今回のプロジェクトでは「20世紀のチカラ」と題して、20世紀の作品のみを取り上げる。デジタルピアノ以前のクラシック音楽界においては、このように複数のデジタル機器を使いこなしながら音楽演奏の細部を作りこむという状況はありえなかったが、一方で1920年代にはオンド・マルトノ[xi]は存在していたし、好奇心豊かな作曲家にとって、楽器が時代によって進化することは想定済みであった。ピアノに関して言えば、アコースティック楽器の進化は、20世紀の初頭にほぼ終わりを迎えてしまったが、作品を遺した作曲家たちは、自身の音楽が演奏される未来に対して、進化への希望を託していたに違いない。彼らの作品は、デジタルピアノで奏でられることを拒否するどころか、むしろ歓迎しているのではないだろうか。
本プロジェクト『白と黒で』はクラシック音楽・ピアノ音楽において「acoustic」が特権的な地位を占める状況を解体し、演奏家と作品が「acousticならぬもの」と共存することについて問う。
脚注
1. 「《テクノロジーによるスキルの代替が音楽演奏の定義に及ぼす哲学的問題―ゴドロヴィッチの演奏論を中心に―》」東京大学美学芸術学研究室
2. オーセンティックな。もとは歴史的に当時のままの継承されたもの、という意味であるが、楽器について用いる場合、その楽器は作曲家が意図した楽器の中に含まれるかどうか、という議論になる。
3. Stanley Godlovitch(音楽哲学者、リンカーン大学教授)
4. Godlovitch 1997:153
5. 演奏者のただの集まりという意味ではなく、手工業の職人のギルドのように、社会的に序列化・組織化された演奏者の集団のこと。
6. Godlovitch 1997: 163
7. 電気ピアノ:打弦メカニズム等を持ち、電気的に増幅するもの(エレクトリック・ピアノ)
電子ピアノ:電子回路で合成するもの(エレクトロニック・ピアノ)
8. チェンバロやオルガンを含めたさまざまな楽器のトーンを備えることから、どの鍵盤楽器に対してもニュートラルなポジションにあり、いろいろな楽器に擬態してシミュレーション可能であることも重要な点である。
9. 佐々木敦(ささき・あつし)日本の映画評論家・音楽評論家・文芸評論家・時事評論家、小説家。雑誌編集者。 元早稲田大学客員教授、慶應義塾大学ほか非常勤講師、HEADZ代表。雑誌『エクス・ポ』『ヒアホン』編集人。
10. テクノ/ロジカル/音楽論 シュトックハウゼンから音響派まで(2005,リットーミュージック)より引用
11. フランス人電気技師モーリス・マルトノによって1928年に発明された電子楽器の一種。鍵盤とリボンによる2つの奏法、特にリボンを用いた鍵盤に制限されない自由な音高の演奏、トゥッシュと呼ばれる特殊なスイッチによる音の強弱における様々なアーティキュレーション表現、多彩な音色合成の変化、複数の特殊なスピーカーによる音響効果によって、様々な音を表現することが可能である。発明された時期は電子楽器としては古く、フランスを中心に多くの作曲家がこの楽器を自分の作品に採用した。
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