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いのちをつなぐために。77年目

今日は、77回目の終戦記念日。

先日、夫が、私の故郷に仕事で訪れ
2時間だけ、両親の顔を見てきてくれました。

帰りがけ、父から夫に渡された数枚のA4の用紙。

そこには、
私も詳しく聞いたことがなかったことが書かれてありました。

普段、市内の文化授業を受けに行く父が、そこで書いた
戦争についての伝承寄稿だったそうです。

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私が生まれたのは昭和10年。血気盛んな青年将校が要人を襲撃する2.26事件が起きた年でした。父母が神戸の紳士服店で出会い、母が自分を身ごもって実家高知で私は生まれました。そのあと母は当時不治の病だった結核になり、隔離され、懸命の治療に努めた甲斐もなく産み落とした乳飲み子を、父の実家がある愛媛の母に預けて他界しました。享年26歳でした。私の名前は父母の名をとって名付けられました。
私は、その後、父方の祖母が育ての親になります。祖母は乳飲み子の私を当時の人工ミルクと重湯で大事に育てたそうです。幸い大きな病気もなく小学校に上がりました。
2年生になったころ、再婚していた父が私を引き取って神戸に移り住むことになりました。神戸の家には継母と息子2人がいました。
1941年(昭和16年)に日本が真珠湾を攻撃して日本では第二次世界大戦、日本では大東亜戦争が始まっていました、ほどなく父が召集されて戦況が厳しくなり、度重なる空襲に私たちはまた四国に疎開したのが、小2のころです。神戸の生活は食べ物に困る日々が続き、実の安全を求めて、継母と弟は実家のある町へ帰り、私はまた祖父母の家に預けられました。
私は小学校3年から中学卒業まで再び祖父母と生活を共にしたのでした。
この時期、私が戦争の恐ろしさや悲惨さを、身体の隅々まで体験した時期になります。戦争は1945年(昭和20年)8月6日、9日に、広島と長崎に落とされた原子爆弾2発と、沖縄の占領で幕を引きました。ポツダム宣言を受け入れた、敗戦国日本の姿はまさにむごたらしの一言でした。

私は1年から2年のころ、小学校で軍事訓練を受けた日のことが忘れられません。当時の先生はそれは厳しく、歩調訓練で何かあると耳を引っ張り、尻を叩いて怒鳴りつけます。
「そんなことで銃後の守りになるか。気を付け。顎を引け」と。
毎日、ピリピリしながら登校していました。しかし戦況は日に日に厳しくなり、1944年(昭和19年7月26日)深夜に飛来したB29が、約2時間にわたって大量の焼夷弾をばらまき、私たちの街はほとんどが焼け野原になりました。自分が10歳で小3の時です。

空襲の日、私は防空頭巾をかぶり祖母に手を引かれて、舞いかかる火の粉を払いながら必死で逃げました。家からほぼ2キロあたりに町の中心を流れる河があり、そこにかかった大きな橋の下に向かって走りました。橋の下は非難した人であふれていました。おびえながらそこから見た街の炎と爆音の中に、何人かの人が逃げ惑う様子が目に浮かびます。
何時間続いたでしょう。燃え盛っていた街の火が小さくなり、静かになったのは明け方でした。おずおずと動き始めた人々と一緒に、街に戻りながら見た光景は、真っ黒で、ところどころ焼け焦げた何人もの遺体がありました。
道をふさぐ焼けぼっくいを避けながら、ようやくわが家にたどり着いたとき、まだあちこちで煙が上がっています。祖父がそこに座り込んでいました。必死で家を守ろうとしていたようで、鼻は真っ黒です。よく生き延びた、と思いました。
祖父の顔を見て急に空腹を覚えた私たちは、焼け跡のあちこちをひっくり返して、残った食べ物を探しました。そして見つけたのは、半分焼け焦げた米櫃と味噌壺でした。3人は、焼き米を焼き味噌で、ものも言わずに食べました。少しだけ焼夷弾の油の匂いがしました。ゆがんだ薬箱も見つけて、井戸水を汲みお湯も沸かしました。

そのころには、近所の人たちも少しずつ帰ってきました。みんな顔を合わせて涙を流し、無事を喜んでいました。しかし、いつまでたってもかえって来ないご近所さんもいました。
跡形もない家の焼け跡の残骸を、祖父母は懸命に引きはがしながら、なにか使えるものはないかと探し始めました。そのとき見つけた金槌や鋸、ヤットコは今も手元にあります。高熱で色が変わった道具を、祖父がなんとか使えるようにして、焼け焦げたトタン板や柱で、その夜のバラック小屋をつくりました。
不発の焼夷弾があって、それに触れて傷ついた人もいたとあとで聞きました。
戦争はまだ続いていたので、いつまた空襲があるかわかりませんが、ここまで燃やしきったらすぐには来ないだろうという思いだったようです。
街の真ん中にそびえるお城山まで、見事に焼けて平地となり、ところどころにコンクリートの建物が残っていますが、しっかりと見通せました。
その夜は着の身着のままで、身を寄せ合ってバラックの下で眠ったのでした。
その日から終戦の玉音放送があった日まで、どう生きていけばいいか、祖父母は住み家を探したようです。幸い近所に居た人の実家が5キロほど離れた郊外にあり、農家を営んでいたので、そこの納屋を借り、座を上げて移り住むことができました。
むしろ敷の部屋の真ん中に切った囲炉裏で焚く火が、唯一の灯です。毎晩、それを囲んで薪を増やしながらの生活でした。食べ物は農家に分けてもらいました。
時折、祖父が街に様子を見に出て、配給の品をもらって帰ります。ある日、帰りが遅いので心配していたら、夜遅くに「アメリカの機銃掃射にやられた」と言いながら帰ってきました。聴くと、歩いていたらバリバリと音がして、後ろから前に土煙が上がっていたそうです
幸い直撃は逃れたのですが、何かが右のわき腹に当たって負傷したとのこと、治療を受けて落ち着いたので帰れたと話しました。
1945年(昭和20年)8月15日の終戦まであとわずかの日のことです。アメリカは、日本人を皆殺しにしたいのかと思いました。私は市内の小学校から、田舎の小学校に転校して通っていました。農家の逞しい子どもたちが川や野原で遊び、その中に誘ってくれます。木イチゴや山ぶどう、いちじくなどがおやつでした。

待ちに待った終戦。戦地で生き残った人たちが、ぼつぼつ帰り始めました。私の父や叔父、近所にいた小父さんも引き揚げてきて、狭い私たちの納屋小屋に住み、しばらくしてそれぞれに次の住み家を探して出ていきました。
祖父も、いつまでもここにいることはできないと、街中の焼け残った家を探し、継母の姉が住んでいた家を借りて、そこに移ったのは終戦の日から3か月後でした。
その家は、私たちが避難した河の橋の上流の、堤防に建っていました。
空襲を免れた古い貸家でしたが、そこが小学校4年から中学校卒業までの故郷です。
田舎の学校から転校した、街の学校は空襲であちこちが壊れていました。
子どもたちはその校舎を手分けして片づけながら、勉強します。堤防の松林の下の道を新しい小学校に近所の悪童たちと並んで通いました。空襲の心配がないことが、子ども心に嬉しいことでした。(父はこのころの楽しい悪童たちとのことを描いた本を自費出版しています)
遊び道具は、あるものを組み合わせて自分で作ります。古い自転車の車輪を分解して作る鉄砲ヤスもその一つです。子兎やヒヨコを育てて卵や肉にしましたし、河では竹一本で魚を獲るのが遊びでした。小遣い稼ぎに磁石を付けた紐をひっぱって道を歩いて鉄くずを集め、売りに行ったりもしました。

終戦から、ほぼ1年は、食べ物を手に入れるのには困りました。祖父母と農家にお米や野菜を買い出しに、何度も行きました。そのころのいやな思い出は、電車での帰りに警察の臨検に遭い、せっかく買った食べ物のリュックを窓から投げ捨てたことです。
食料統制で闇の買い出しは禁止されていたからです。警察に捕まったらいけないと、悔しいけれど捨てました。たった一度だけのことですが、今も忘れられません。
また祖母はしょうゆや塩がなくなると遠くの海に出かけて一升瓶に海水を汲んで帰りました。それが私たちの食事を支えていたのです。
野生の蕗や蓬や芋の茎、河でとれる魚はたびたび食卓に上りました。お米を補う団子汁(すいとん)や南瓜、芋も厭というほど食べました。ことほどさように、食べ繋ぐことに苦労する戦後でした。

戦後行われた学制改革は、国民学校から六三三制の小中高校に変わり、私たちも新しく出来た中学校に進むことになります。その学校は、元あった日本軍の兵舎が校舎でした。お城を見上げるお堀端のなかにあります。
家からの距離は6キロ余り、ぼつぼつと復興住宅から立ち並ぶ中を、毎日歩いて登下校しました、復員してきた先生方は、軍事教育から一転して民主主義教育をすすめねばなりません。でも英語や社会の先生は、終戦後の解放感に満ちていました。生徒たちも何かうきうきして、中には先生をやりこめる勢いのあるものがいました。それが許される時代になったのです。
社会の先生は「黙るな、意見を言え。自分を主張しなさい」と討論を勧め、英語の先生は「正しい発音を。唇と舌の使い方を覚えろ。外人に通じる英語を学べ」と指導します。
思えば戦時中の学びから、戦後の学びに180度の転換期に生きた世代だったわけです。
ですが子どもは柔軟です。新しい勉強法にすぐに馴染みました。むしろその違いを体験したからこそ、その後の様々な難関を乗り越えられたと思います。
学校の機材や用具不足を補うために、校内にあった楠の実を集めて売り、資金の足しにしたこともあります。クスの実はナフタリンの原料でした。また、石炭殻を敷いた軍事訓練場跡を割り振って、生徒たちが畑を作り、人参やサツマイモを育てたりもしました。
旧兵舎は終戦で進駐してきた米軍の住んだ跡で、壁は原色の訳が分からない模様が入っていましたがいつしか消されました。多情多感な中学校のころ、1948年(昭和24年)から1952年(昭和27年)の思い出です。

終戦から77年が過ぎました。
「神国日本、米英鬼畜、撃ちてし止まむ」
そんな言葉に引きずられて世界を相手に戦った小さな国に、平和が訪れ二度と戦争はしないと宣言して、経済大国に成功したことは皆さんもご承知のとおりです。
今、戦争の恐ろしさを身をもって体験した私たちは、平和がこのままいつまでも続くように願っていますが、最近の世界の様子を見ると恐ろしさを禁じえません。
資源を持たない小さな国でなく、資源も財力もある大きな国が、その権益をさらに広げようとして、大きな武力を背景に身勝手な理屈をつけて侵略を初めています。彼らは侵略ではなく「自国民を守るための正当な特殊軍事作戦だ」などと云います。
かつての私たちのように、国の異常な考えや、金縛りに遭い、間違った選択を強いられている姿を見るとき、これからの世代のことが心配でなりません。
いったんことが起きれば、今度は地球の環境そのものが取り返しのつかないことになるからです。
昔と違い、多くの情報がデジタルで即見える時代です。手にした情報を正しく読み解き、
二度と戦争に巻き込まれないよう、心から願う今です。

                    2022年7月27日 モンツンク記

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”戦争を体験していない自分たちが、伝えていくものは何か”

先日観させていただいた、映画「for you 人のために 」
ドキュメンタリー映画「for you 人のために」予告編 - Bing video

で、まさに自分に問うていたところでした。

東日本大震災の語り部も、世代が変わってきていても、
語り部から、語り部へ繋がれてきていることをうかがっています。

戦争も、この体験を聴いたことを伝え、聴いて感じたことを伝えていく
以外にはないのだと思いました。

18歳になった父は、一人で東京に出て、様々な仕事をして
その時の体験もいつも聴かせてくれました。
食べることの話は、今回のようによく出てきていました。
どんなときも、自然の力が、いのちを救ってくれたのだと
今活動する、GAIA活動にもつながっているのだと感謝です。

愛媛でお見合いをして、母と結ばれ、私たちが生まれて、
待望の家族ができた父の喜びと、愛と、感謝、そして、
この戦争の体験が
余命三か月の白血病という大病をしても、
35年何とか生き延びてきた力になっているのだと
あらためて、父を尊敬します。

そして、
今もなお、おなじように
必死で生き延びようと暮らす人たちに思いを馳せて
どんな人にも胸にある
青く輝く光を信じて、大切な話を
平和のために、繋いでいきたいと思います。

”食”と、ともに。

(写真は、今年、大願の吉野桜を観ることができた父)

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