見出し画像

構造の捩れとは、ガンプラしか作っていない人たちをプラモデラーと呼んでいいのか、と心の中で考えている人が少なからずいる、ということであろう

先日、ハセガワのザブングルの新作キットに関するブログを読んで、ずいぶん拙い文章だな、と思っていたら、ネットでちょっとした騒動になっているらしい。そのブログの編集長(記事の書き手でもあったと思う)のツイッターの呟きで、言い訳がましいことを書かれていたので、私は「文章が拙い」「批評そのものを学んだ方がいい」みたいなことを率直にコメントしたら、私のコメントを削除されたようだ(もしかしたら、呟き自体を削除したのかも知れない)。

批評そのものを学んだ方がいい、というのは、私は批評書や思想書を100冊以上読んでいると思うので、キチンとした批評文を書きたいのならそれぐらいのことはすべきだろう、と思っているだけで、日本で最初の職業批評家である小林秀雄の著書ぐらいは全集で読んで然るべき、ぐらいに考えている。

あと、今の時代、切り抜きは当たり前なので、どこを切り取られてもいいように文章を書くべきで、書き手が意図しない読まれ方(引用、切り抜かれ方)も含めて清書すべきだと私は考えている。特に、ライターの方は、感想文ならいいのだけど、批評は感想とは違うので。

ちょっと前は「パチ組は作品とは呼べない」で、今回はザブングルの新作キットのレビュー。どちらも共通しているのはガンプラである。

構造の捩れがある。そこを前提に話を進めないから、誤解を招いてしまう。この場合は、ガンプラとガンプラ以外のプラモデルで、端的に言えば、ガンプラはプラモデルと呼べるのか、で、その先にあるのは、ガンプラしか作っていない人たちをプラモデラーと呼んでいいのか、という、余計なお世話的な、プラモデラーの勝手な自意識である。
例えば、ペーパークラフトしか作っていない人たちをプラモデラーと呼んでいいのか、もっと言えば、折り紙を折って楽しんでいる子どもたちをプラモデラーと呼んでいいのか、と言うのがあって、私はペーパークラフトや折り紙をプラモデルとは思わないけど(プラスチックではないから)、それはそれでいいんじゃないの、と真面目に考えている。つまり、ペーパークラフトや折り紙を「模型」の範疇に入れてしまえば、模型雑誌でペーパークラフトや折り紙を取り上げない方がおかしいのではないか、と考えることも出来るだろう、と言うことを私は書いている。

簡単な話で、ガンプラとはローランドなのである(楽器メーカーではない)。

ガンプラか、ガンプラ以外か。

構造の捩れとは、ガンプラしか作っていない人たちをプラモデラーと呼んでいいのか、と心の中で考えている人が少なからずいる、ということであろう。

例えば、パチ組作品炎上の時は、「水星の魔女」からガンプラをパチ組で始めた人たちが果たしてヘビーユーザーになってくれるのか(否、そうではない)、という問題意識の元で、名人らしきプロのモデラーがツイッターで呟いたのが発端だったようだが、「そんなこと、私の知ったことじゃないよ」と私は今でも思う。正確には「それならそれでいいんじゃない、そんなことはバンナムがとっくに考えているよ、たまごっちのこともあったんだし」である。余計なお世話というのは、そういうことなのだ。

ザブングルに関しては、ハセガワのキットで、さらにガンダムではないのに、やたらとガンプラと比較したレビューを展開していて、それでハセガワのザブングルは出来が悪い、と一部ネットで出回ってしまったらしい。そんなものは一部だろうから放っておけばいいのだけど、読者を誤解させておいて、言い訳がましいことをツイッターで呟いているのをたまたま目にしてしまって、あまりの芸のなさに驚いて、つい直接ツイットにコメントをしてしまったぐらいには、私はそういう人たちに呆れている。
どうしてザブングルのキットをガンプラと必要以上に比較する必要があるのだろう。それは、読者を想定して書かれた文章(レビュー)だからで、その読者の多くはガンプラしか作っていないモデラーだからであろう。だったら、ガンプラと比べてハセガワのキットは劣っている、とハッキリ書いた方がいい。

私は今、ハセガワのリガードを作っている。その前はメカトロウィーゴの「きゅうしき」(銀メッキ)を作った。ガンプラとは設計思想が違う。パーツが折れる、ハメや合わせが悪い、親切な雰囲気だけどガンプラの方が間違いなく親切。これが忌憚のない多くのユーザーの声なのだろうが(ガンプラばかり作っている人が多いのだから)、あまり誰もガンプラを芸術とは言わない。私は、自分の作ったプラモデルの中では、ガンダムエアリアルとティラノザウルスの骨格のプラモデルを作っていて、とても感動した。あれは、他のプラモデルメーカーでは決して味わえないのではないだろうか。それを、芸術と呼んでいい、とさえ私は感じている。
ランナーの設計、自分で組み立てる工程、キットの技術力、それらを総合して、私は芸術と言ってさえいいのではないか、と。

私は既にアンサーをいくつか文章でアップしていて、「下手を楽しむ」もそうだし、それは、「下手でいいじゃない」という開き直りというよりかは、文字通り、下手を楽しむ。従って、出来の悪いキットは、その出来の悪さを私は楽しんでいる(旧キットのビルバインとか)。合わせが悪いからといって、パテで改修しないし、改造もしない。その代わり、ジオラマを自分で作ることに興味が出てきて、4つもジオラマキットを手に入れて、入門書まで買い求めた。だからといって、人様にジオラマ作りを推奨するつもりはない。そんなものは、やはり、私の知ったことではないのだ。私はジオラマを作りたい、そこに自分で作ったプラモデルを飾りたい、ただ、それだけなのだから。

読み手にキチンと理解されないといけない、というのが最大の誤りで、そうそう簡単に理解できることは、だいたい、当人が勝手に理解したと思い込んでいるか、思い込みたいだけなのではないか。「誤解されない人ほどつまらない人もいない」みたいなことを小林秀雄は著書の中で書いていて、誤解されかねない何かがない批評は確かにつまらない。だから、批評はいつも危うい。その批評の危うさを揺蕩い、誤解される覚悟を持って、意図的に誤読を招くような構造にしてしまうぐらいの芸が欲しい、と私なんかはつい思ってしまう。

スケールキットのハセガワ、と言うのであれば、ハセガワのスケールキット(主に飛行機のことだろう)を作ればいいじゃないか。私は、そのうち、ハセガワの戦闘機も買って作りたいと真面目に考えている。
そして、バンダイのプラモデルは、人気がイマイチかも知れないブルーアイズホワイトドラゴンが欲しいわたくしです。

この記事が参加している募集

多様性を考える

今こんな気分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?