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序章 戦国の阿波国

 私の生まれ故郷である阿波国麻植(おえ)郡木屋平※の村は、天の雲をも貫く霊峰剣山を間近に望む。村と言ってもほとんどが険しい山地で、辛うじて人が暮らすことの出来る平地は穴吹川沿いに僅かしか存在しない。村人はそこに家を構え田畑を耕しながら、質素で慎ましい暮らしを営んでいる。穴吹川は山を下ると、阿波国を西から東に悠々と流れる四国随一の大河、吉野川と合流する。
 今は如月(きさらぎ)の半ばで、木屋平は未だに深い雪に閉ざされている。しかし吉野川まで来ると多少積もる程度で、人の暮らしを妨げる程では無い。

 吉野川の河口から海沿いには大きな町が連なり、畿内※との交易でとても賑わっていると聞く。私はそこを目指し、一人で旅を続けていた。生まれてから初めて故郷を出た私には、途中で立ち寄る村々で見聞きした何もかもが珍しく新鮮であった。しかし、どうしても腑に落ちない光景を目にすることもあった。例えば両替商である。
「どうして銭の両替に手間賃を取ろうとするのかしら。理解できない」
 京の都や商都の堺と海を越えて頻繁に取り引きがある阿波国では、銭の流通が増えている。懐に入れて容易に持ち運べるので、旅する者も銭を使うことが多い。
 私が村を出る時、袋に入れた砂金を母が持たせてくれた。旅の路銀としては充分過ぎる価値があるが、そのままでは物を買ったり宿に泊まったりする時の支払いに使いにくい。なので私はある村でたまたま見つけた両替商で、砂金を銭に交換しようとした。するとその両替商は、手間賃と称する額を引いて銭を渡すと告げてきた。
 私にはそれが理解できなかった。渡した砂金を然るべき所に持ち込めば、彼らは両替した銭の分をまるまる回収できる。だから私が手間賃を払う必要など無いはずだ。
 そう思った私は両替商に食い下がって反論した。そのため周囲を巻き込んだ騒動になり、結局その村から追い出された。それでも私は、自分が間違えているなどと全く思わなかった。
 銭や金銀を扱う両替商は、常に野盗や追い剥ぎ等の危険にさらされる。それを避けるため、彼らは多くの手間と費用をかけてあちこちの有力な武家に貢ぎ物を献上する。だから彼らは両替の時に手間賃を取る。彼らの商いの仕組みを私が知ったのは、しばらく後になってからとなる。

 旅路に戻った私は多くの人々とすれ違ったが、皆の表情はいまいち冴えない。それは今の阿波国に戦乱の兆しが訪れているためである。
 阿波国の西の山あいで吉野川の上流にある白地(はくち)城に、土佐国を統一した長宗我部元親が昨年(天正五年・一五七七年)から居座っている。そもそも土佐国と阿波国とは険しい山々で遮られ、人の往来はほとんど無い。しかし彼は土佐兵を率いて大歩危(おおぼけ)、小歩危(こぼけ)などの難所を越え、ついに城を落とし我が物とした。白地城は四国の各方面へ向かう街道が交わる結節点でもある。元親はそこを拠点として阿波国、讃岐国、伊予国に攻め込み、四国を統一すると息巻いている。
 一方で現在阿波国を治めているのは、守護の細川家に下剋上で取って代わった三好家である。しかし彼らは畿内で続く幕府の内輪もめに長年首を突っ込み続け、本国を疎かにした。しかも昨年の内乱で現当主が討ち死にし、今の阿波国は混乱を極めている。さらに一族の年長者である三好笑岩(しょうがん)は、対岸の摂津国に出向いたまま帰って来ない。室町の公方(くぼう)※を追放して右大将の地位に昇り、天下に覇を唱えようとする織田信長の機嫌を取るためである。機を見るのに聡い元親はこの混乱に乗じ、間もなく阿波国に攻め込んで来るだろう。
 なお我々『槍の鞘』一族は、昔から都の天子様にお仕えてきた血筋である。戦国の世に乗じてたまたま国持ち大名にのし上がってきた素性の怪しい武家など、私は呼び捨てで構わないと思っている。

 阿波国の人々にとっては、領主が三好だろうが長宗我部だろうが年貢を納める先が変わるだけのことに過ぎない。ただ彼らは、今まで大切に育んできたものが戦乱で壊されることを恐れている。
 そんな人々の不安を代弁するかのように、冬のどんよりとした雲が私の頭上に低く垂れ込めていた。

注釈:
※木屋平:現在の徳島県美馬市木屋平
※畿内:京のある山城国と、大和国・摂津国・河内国・和泉国
※公方:ここでは室町幕府足利将軍家の第十五代・足利義昭。

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