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無関心を喜んで、そして見放されたのかもしれない。

何もされないのがよいことだと思っていた。

何もされなければ問題も起きない。プラスも生まないけどマイナスだって生まない。プラスを生まないことなんかどうだってよくて、マイナスを生まないことの方が重要だった。

私は、いくつもの問題を抱えていたんだろう。

例えば、"叱られる"と"怒られる"の違いがわからないこと。

例えば、叱ってくる人を避け、自分に甘くしてくれる人ばかりで周囲を固めていたこと。

例えば、厳しい指摘をしてくる人から逃げていたこと。

そのすべてが絡み合って、私はいくつかの関係性をめちゃくちゃにした。いや、めちゃくちゃにすらなっていなかったのかもしれない。その関係性は築き上げられることもなかったから。

まあ仕方ないなと思う。その頃私は無自覚ながら抑うつ状態にあったし、正常な判断はきっとできていなかった。

叱ってくれる人を避け、自分に甘い人ばかりとつきあって、助言をくれる人のほとんどを別れと同時にブロックして。得られたものは何もなかった。

でも、何もないからいいのだと思っていた。マイナスは生んでいないから。プラスも生んでいないのに。

私が望んだのは、ゼロだったのだろう。

何もされないこと、何もしないこと。ゼロを望むようになったのはいつからだろうか。

思えば子どもの頃からだったように思う。気づけば人とトラブルになって母や先生に怒られることを繰り返していた、幼い頃。怒られないために効率的な方法として何もしないこと、されないことを選び取った。

それが板について、それなりにうまく何もしない、されない関係性を築けるようになった頃。私の周りには私に甘い人しかいなくなっていた。Twitterでもするように人間関係を作っていった。

バイト先で相手が諦めて何も言わなくなったり学校で指導教官に無関心を示されたりしたら、どこかほっとしている私がいた。もう怒られることはない、とほっとしていたのだ。

学校の方はまずいと思って忠告してくれる人もいたけど、「怒られなくなったこと」は私にとって祝うべきことであり、何でもなかった。とりあえず時が来れば卒業できるのだから。

何もしないこと、されないことをいいことだと思ってきたので、どうやって人と仲良くなればいいのかも、どうやって信頼関係を築けばいいのかも、わからない。

あの当時関わった人に、申し訳ないと思うべきなのかもしれない。思うべきなのかもしれないと言っている時点でバレているだろうが、申し訳ないという気持ちはほとんどなく、抑うつだったんだから仕方ないと思っている。

まあ終わったことだし仕方ないか。

私のためを思って叱ってくれる人というのを見つけられるようになろう。それでもそれは正しくないのかもしれないけど。

執筆のための資料代にさせていただきます。