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巌窟王

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記事一覧

巌窟王 #059

 どうすれば好いのか、何を考へたらいいのかも分らずに、ヴィルフォールは只茫然と妻と息子と屍體を眺めながら泣いてゐた。と、其処へ、始終祖父のノアルテルの部屋へ話しに来てゐる坊さんのブゾオニ長老が忍びやかに入つて来た。坊さんはワレンチンの葬式の時以来、毎日のやうにヴィルフォール家へ出入りして、お祈りをあげたりさびしい祖父を慰めたりしてゐた。

『ヴィルフォール殿、どうなされた。又御不幸がお在りのやうぢ

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巌窟王 #058

『さうだ、妻にみんな打明けて、妻を赦し自分も妻から赦しを受けて、一緒に世界の果まで逃げなければならぬ。あのベネデツトオ、あれが出て来たのは神の審きが下つたのだ。おお何と云ふ恐ろしい事だらう! もう何もかも捨てて妻と息子とを連れて逃亡する外に路はない、さうだ、一刻も早く……』とヴィルフォールは馬車が家へつくまでに幾度かこんな事を思ひ返した。

 彼は家へ入るや否や、狂気のやうに妻の部屋へ急いで行つた

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巌窟王 #057

『では母親の名は?』と裁判長は訊いた。

『母親は私が生れた時死兒を産んだやうに云ひ聞かされたらしいので、母親に罪はありません。従つて私は母の名は聞かずに丁ひました。』

 と、此時聴衆の中で突然絹を裂くやうな叫び聲が起つて、やがて啜り泣きの聲が聞えたと思ふと一人の婦人が卒倒した。暫く又群衆がざわめいて廷丁がその婦人を扉の外へ運び出した。その時婦人の顔にかかつてゐた面紗が解け落ちて、それがダングラ

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巌窟王 #056

三十八 恐ろしき陳述 あたりの動揺が再び静まるのを待つて、裁判長はベネデツトオに向つて、若しその陳述が偽りでないならもつと、詳しく述べて証拠立てて見よと云ひながら、

『だが、その方は予審で、ベネデツトオと名のり、コルシカ生れの孤児だと述べて居るではないか。』

『あれは今日の大事な陳述する機会を失ふ恐れがあると思ひまして出鱈目を申し上げたのです。私は今申す通り捨兒の身の上で自分の名前は存じません

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巌窟王 #055

 ヴィルフォルの才筆で書かれた起訴状には、犯人の以前の生涯とその流転の有様が、身の毛のよだつ程生き生きと描かれてゐて、検事長のやうな洞察の深い人にして始めて解し得られるやうな事実が一ぱい挙げてあつた。その起訴状が読みあげられてから、被告への訊問が始まつた。

『被告、その方の姓名は?』と裁判長は訊いた。

 ベネデツトオは立ち上つて、『閣下、失礼ながら私は少し事情があつて、名前は他の事の後で申し上

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巌窟王 #054

 幸ひにも今息子のエドワルが夫人の私室にはゐないで、隣りの客間へ入つて機械仕掛けの兵隊の玩具をいたづらしてゐるのを見ると、ヴィルフォルはこの機会に又もや夫人を責めずにはゐられなかつた。

『どうだ決心はついたか? え? 私は今日はこれから大きな事件の裁判に行くが、その前にお前の決心をきいて行きたいのだ。』とヴィルフォルは云ひ出した。『私はいつまでも此の儘済して行くわけには行かない。それに自分の身の

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巌窟王 #053

モルセル将軍の議会に於ける舊悪の曝露、それからその自殺、妻子の家出−−これ等の報知をきいて誰れよりも驚きを感じたのはヴィルフォル検事であつた検事はこの恐ろしい事件が、やはりモント・クリスト伯爵に深い関係を持つてゐたのを知つて、伯爵に対する疑惑を一層深くした。ダングラル家の婚姻事件と云ひ、又ヴィルフォル自身の舊い犯罪に対するクリスト伯爵の思はせ振りな威嚇と云ひ、いづれの点から見ても、早くクリスト伯爵

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巌窟王 #052

『むむ、今その正体を見せてやるから待つてるが好い。』とモント・クリスト伯爵は嚇と怒りに燃えた。

 彼は急いで客間につづいた衣裳部屋へ駈け込んだ。そして頸飾も上衣も肌衣もすつかり脱ぎ捨てて、船乗の胴衣を身軽に纏ひつけ、水兵帽を被つた。帽子の下には黒い髪の毛が垂れ下つた。鏡に映して見ると、何十年前にあのファラオン号に乗つてゐた時の姿そつくりであつた。かうして伯爵は大股に勢ひよく客間に帰つて来た。

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巌窟王 #051

頼んだ辻馬車はもう門前に待つてゐた。二人は一先づサン・ピエル街にある小さな貸間へ行くつもりであつた。荷物を馬車に積ませてから、母子は壮麗な住居を見収めにして到頭玄関口を出たと、一人の見知らぬ男が其処へ近づいて来て、一通の手紙をアルベルに渡した。アルベルは封を切つて急いで読んだ。それはクリスト伯爵からの手紙であつた。読み終ると彼は黙つて母親に渡した。マルシードは其れを読み乍らほろほろと涙を下した。そ

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巌窟王 #050

 モント・クリスト伯爵は涙に瞼を濡らして、不規則な息使ひをしながらアルベルに手を差し出した。アルベルは重々しい容子で、微かに戦きながら伯爵の手を堅く握って、『モント・クリスト伯爵は僕のお詫を聞き届けて下さいました僕が早まつたのです、諸君!』と一同に向つて言つた。

『昨夜何かあつたのか知ら?』とポーシヤンはルノオに訊いた。『何だか僕等は悲劇を飾りに来たやうなものだね。』

 光景は一変した。アルベ

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巌窟王 #049

『どうしたのだらう?』と青年たちは心配さうに繰り返へした。

『ああ美しい朝だ!』と伯爵は悠然として待つてゐた。

 半時間ばかり遅れてからアルベルは馬に乗つて勇ましい騎士のやうに飛んで来た。広場に着くと彼は馬から跳び下りて、息せきながら直ぐにみんなの前に進み出た。顔色は死人のやうに蒼ざさ、眼の血走つた容子は、暗に昨夜眠らなかつた事を語つてゐた。

『諸君、僕のために出向いて下すつて有難う……ほう

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巌窟王 #048

『ああ何と云ふ馬鹿な事だ。永い間の辛惨と苦心とから築き上げた計画の一つを、たつた一時間ばかりの中に斯様なにも崩されるとは! 俺の胸にはもう人間らしい情緒は滅びたと思つてゐたのにまだ弱々しい愛慾の心が何処かに残つてゐたのか、何故もつと復讐に身を任せて了はなかつたのだ?愛慾のために直ぐに感動するやうな心を持つてゐると云ふ苦しさだらう!何たる馬鹿なことだ。』と伯爵は部屋へ帰つた後、こんな風に自分を嘲りな

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巌窟王 #047

『おおエドモンさん、私にはあなたのお心持ちがすつかり分りました。如何したら好いでせう。赦して下さい。只お赦しを神様に祈る許りです!』とマルシードは啜り泣きに咽びながら云つた。『でも何卒私を殺してなりと息子のアルベルだけは助けて下さい。アルベルを助けたい許りに私は辛い思ひを忍んで、斯うしてお目にかかりに上つたんです!』と彼女は昔の恋人の胸に縋りついて、半ば悲しみと半ば歓びとに顫えながら伯爵の手に接吻

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巌窟王 #046

『おお、エドモンさん! どうぞ私の息子を赦して下さいまし。』とその夫人はあたりを見廻しながら絶望的な声音を顫はせた。

 エドモンと呼ばれて伯爵はどきりとしながら後へ飛び退いた。『ではあなたはモルセル夫人?』

『いいえ、』と彼女は覆面を投げ捨てながら叫んだ

『私はモルセル夫人ぢやありません。あなたのマルシードです! 何十年の間一日もあなたを忘れた事のないカタラン村のマルシードです!』

 クリ

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