見出し画像

大型類人猿を食べることについて(2)

前回の記事では、大型類人猿を食べることの是非について、サステイナビリティの観点から望ましくないと述べました。と同時に、私個人としては、サステイナブルかどうかに関わらず、人々に大型類人猿を食べて欲しくないし、自分も食べたくない、つまり、実際に食べるか食べないかではなく、大型類人猿を食糧資源として捉えること自体に対して抵抗感があるとも述べました。今回は、この点をもう少し掘り下げたいと思います。

「大型類人猿は食料ではない」は正当化できるか?

私が、自分自身の価値観として「大型類人猿は食べ物ではない」と考えることはまったく問題はありません。問題は、それを公共の価値観として人々にも受け入れてもらう(押しつける)ことは可能か、ということです。
くどいようですが、ここで正当化したいの命題は、実際に食べることを禁じるかどうかではなく、「そもそも食べようなどと考えてはいけない」です。ウナギやマグロの飽食を禁じるみたいに「おいしい食べ物だから、枯渇しないようにいまは我慢しましょう」のように考えることすら認めない立場です。

私たちは通常、何でも食べるわけではありません。食べ物とそうでない物とを区別しています。お腹がすいたからといってパソコンを食べる人はいないでしょう。

このとき、私たちが食べないものの多くは、パソコンのように、食べられないか、食べてもほとんど栄養にならないものです。しかし、私たちが「食べられるもの」の全てを食用にしているかというと、そうでもありません。高栄養の食物となりうるのに食べないものもたくさんあります。多くの文化で「食べ物」は「食べられるもの」の中から文化的に選択されたものです。

だから、ある文化における食べ物が他の文化では食べ物ではないことがあります。江戸時代にロシアに漂流した大黒屋光太夫の一行は、助けてくれた家で出されるあたたかい白い飲み物が牛の乳であることを知ると、日本では不浄であると説明し、供されるのを断ったといいます。

大型類人猿が栄養価の高い食物資源となるポテンシャルがある(そして実際に食べる人々がいる)ことは明らかです。よって、大型類人猿を食べ物としないのは、自然の摂理というより、文化的選択であると言えます。

したがって、私たちには自分の価値観・文化を大切にするという観点から、「私は食べません」と辞退する権利はあります。しかし、他の人々にそれを押しつけるのは、自文化中心主義と言わざるをえません。

そもそも正当化しなければならないのか

と、あっけなく「大型類人猿は食べ物ではない、は正当化できない」という結論に達してしまいました。納得できない人もいるだろうなと思います。私自身が、このように書きながらモヤモヤを拭い切れていません。

でも、実際にアフリカでの野生動物保護の現場に身を置いてみると、自分自身にモヤモヤが残っていたとしても、ここで頑張るべきではないのだろう、と感じます。

というのは「すばらしい生き物だから食べてはいけない」と訴えるより「いなくなったら食べられなくなってしまうんだから食べるのをやめようよ」と言う方が、あきらかに人々を説得するパワーが強いのです。だから、無理やり「倫理」みたいなものを持ち出して特定の価値観を強制するより、減ってるから捕るのを控えましょう、と訴えるほうが文化的な摩擦も生じません。そして、たいていの社会に資源管理的な発想はあります。私の調査地の周辺に暮らす人々も、むやみやたらと野生動物を狩り尽くしてやろうなどと思っていません。

正当化より共感が大事

とはいうものの、やっぱり大型類人猿を食べ物と思って欲しくない気持ちは消えません。その気持ちは諦めなくてはならないのか、というと、そうでもないと思います。

「大型類人猿は食べ物ではない」を規範として人々に押しつけることはできないし、たぶんしてはならないのだと思います。でも、押しつけたり強制したりせず「大型類人猿は食べ物ではないよね」と共感を広げてゆくことはできるし、してゆきたいと思います。共感を広げるのには時間がかかります。でも、その時間は必要な時間です。経済的観点から食べることを我慢してもらっている間に、多くの人々に私と同じような気持ちになってもらえるよう、努力したいと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?