「我々はここへ研究に来た。ただしあなたがたとである」

前回の続きです。

前回の記事に書いたことは、ただ一回の話し合いの場の描写ではありません。実際には、D村の人々は私たちの調査にそれなりに協力してくれながら、さまざまな場面でいろんな「要求」をしてきました。わたしたちは、そうした要求は可能な範囲で応えてきましたが、応じればさらに要求をつりあげ、断れば仕事を投げ出すなど、なかなか大変でした。

私には、交渉ごとの際に彼らの用いるロジックが彼ら自身の本音だとはなかなか思えませんでした(今でも思えません)。外国人に搾取される地域住民という図式をあまりに強調しすぎていたからです。そうした図式が嘘だとはいいませんが、少なくとも私たちは新参者です。こちらは(今風にいえば)双方がWin-Winになるようなやりかたを模索しているのに、ちょっと気に入らないとこの図式を持ち出してくる。ずるいなと感じていました。

そうはいっても、彼らの主張は正論です(要求はちっとも正論じゃなかったですが…働かなかった日の日当を出せとか)。社会構造としてアフリカの地域住民は先進国の豊かな人々に搾取されているというのは間違っていない。アフリカに関わる身としては、そうした構造にはあらがいたい。そのような私の安っぽい正義感にこれは堪えました。それで、なかなか強く出れません。

当時、私たちのあいだで大きな問題になっていたのが、村から北の都市へつながる大きな橋でした。私がムカラバで調査をはじめて2年目に、洪水で流されてしまったのです。この橋を直してほしいというのが彼らの要望でした。

しかし、野外調査の渡航費と橋の修繕費は桁が3つくらい違いました。ほとんど公共事業に近い大規模工事が必要です。つまり、私たちにはできっこない要求です。それでも私たちは、できる限りのことはやりました。調査の合間に、というか、調査の手をとめて、首都に出て日本大使館に相談にいったり、そのための資料として実際に地元の業者に見積もりを取ったりもしました。

ですが、まあ、解決するはずもありません。しかし、村の人々は要求はするものの、実際に橋を直そうとする活動にはほとんど協力してくれませんでした。本当に橋を直してほしいのか、疑問に感じるほどでした。むしろ、直せるはずのない橋を直せということで私たちとの交渉を有利に進めようとしているだけのように思われました。

このように書くと、D村の人々はひどく邪悪であるかのように思われるかもしれません。ですが、当時から私は、彼らのイジワルの背景には、かなり根が深い「不公平感」と「不信感」があるように感じていました。それは、彼らが「あの頃はよかった」と振り返る伐採会社の時代に醸成されたものであると私は推測しています。その頃は今よりも多くの「おこぼれ」に預かっていたかもしれませんが、それは所詮「おこぼれ」でしかない。それは格差と不平等を受容することの引き換えとして与えられたものです。外国人が何を与えてくれようと、それは本来自分たちが得られるべき利益から割り引かれたものでしかない、ということをつきつけられる経験をしてきたのでしょう。

だから私は、せめてもの勤めとして「橋の件で会議をしたい」と言われれば必ずキャンプから村に出て行って、やいのやいのつるしあげをされながら、同じ説明を何度も繰り返しました。私たちには橋を直せない。しかし、直す活動の手伝いはできる。これをやって、これをやって、これをやった、しかし実現しなかった。ほかにやれることがあれば提案してほしい、と。彼らは、そのようにして私をつるしあげ、説明をさせることで、多少は溜飲を下げているようでした。しかし、最終的に納得することはなさそうでした。

彼らの要求が最高にエスカレートしたのは、私の指導教官だったYさんがフィールドを訪れたときです。こちらのビッグマンが来たことで、より強い要求を通せると思ったのか、とうとう「今すぐ橋を直せ、直せないなら出て行け」という言葉が発せられました。

私は、この時のことを生涯忘れないと思います。何人もの村人が代わる代わる演説をして「橋を直せないなら出て行け」と言います。私は、何をどう話せばこの要求を取り下げてもらえるか、必死で考えましたが、答えはみつかりませんでした。私の横でYさんは腕を組んで黙って聞いていましたが、皆がYさんに返答を求めると、おもむろにこのように言ったのです。

「我々はここに研究をしにきた。ただし、我々は自分たちだけで研究するつもりもない。あなたたちと研究したい。ガボン政府とではない。あなたたちとだ。あなたたちが一緒にやってくれるなら一緒にやる。そうでなければ、我々は去る」

Yさんが橋について何一つ答えないので、私は失礼ながらYさんが彼らのフランス語をちゃんとわかっていないのではないかと思いました。一方、村人の方にはあきらかにこれまでにない反応がありました。ざわざわと彼ら同士で現地の言葉で応酬があり、やがて「主だった者で意見調整したいのでちょっと待ってくれ」と言って何人かの男たちが裏で相談を始めました。

やがて彼らがYさんを裏に呼びます。そして、数分後にみんなで出てきて、会議は終わりました。あとでYさんに尋ねると「酔っ払ってキャンプで大騒ぎをしたので村に帰した若者を許して(もう一度雇って)ほしい」といわれ、承諾したのだそうです。たったそれだけ。橋のことも、調査のことも出なかったと。

だいぶ長文になりました。今回はここで切り上げて、もうちょっと続けます。次回は、このエピソードを私がどう理解しているか、そしてそれが「住民参加型保全」とどう関係しているか、説明したいと思います。



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