「お前たちは、かつて木を切れと言ったが、今度は切るなと言う」

前回記事に引き続き、今回も「住民参加型保全」の話を続けます。

「住民参加型保全」に対してモヤモヤを感じつつも、だからといってそれに反対するわけでもなく、どちらかと言えば推進の立場である。しかし、モヤモヤを感じているので活動に今ひとつ身が入らず(心も入らず)、はたから見れば文句を言うばかりで何もしていない。というのが、率直な今の私の姿です。はたから見なくても、自分でもそう思います。

4月8日の「報道特集」で、亡くなった坂本龍一さんが「反戦」に関して生涯その姿勢に一切のブレがなかった様を観ました。あのような姿を目にすると、定まらない自分の姿がどうにも宙ぶらりんで一貫性がなく、ダメダメな気がしてきます。

自分も腹をくくったほうがいいのではないか。まず「大型類人猿保護」という自分の立場をはっきりさせ、なにごともそこを起点として、考え、行動する。そのほうが言動に一貫性がでて、活動成果もあがり、周囲の評価も得られるのではないか。そのように思ったりもします。

ですが、おそらく私にはそれだけの腹をくくることはできません。仮にできたとしても、それはただのポジショントークにしかならないでしょう。坂本龍一さんのような芯のある言動にはならない。だったら、むしろ、モヤモヤしている自分を受け入れ、モヤモヤを抱えつつ、あーでもない、こーでもないとブレ続けることこそが、逆説的な意味で一貫性のある態度といえるかもしれない…

…というような頭の中でのグダグダは、わざわざNoteで公開して人に読ませるようなものではないですね。もっと具体的な話をしましょう。

私は、アフリカ、ガボンの南西部にあるムカラバ-ドゥドゥ国立公園というところで、ゴリラとチンパンジーの研究と保護活動をしています。はじめてムカラバに足を踏み入れたのは1999年の4月ですから、気づけば活動をはじめてから四半世紀が過ぎたことになります。

この四半世紀の間に、ムカラバの森とその周辺地域はずいぶん様変わりしました。大型類人猿たちも、周辺地域の人々の暮らしも大きく変わりました。ムカラバを取り巻く状況も、当初とは隔世の感があります。(黎明期の頃の話ができるのは私しかいないので、いつかどこかで書かねばならないと思っています。研究者を対象とした行事ですが、以下のシンポで少しばかり話をするつもりでいます。)

さまざまな変化の中でも際立っているのが、熱帯林や大型類人猿保護についての住民の言説です。いまでは、環境保全に明確に反対意見を言う人は一人もいません。老若男女、尋ねれば誰もが迷わず「森は大切だ、ゴリラは大切だ」と言います。

これはやはり、驚くべきことです。だって、昔は違ったのです。保護に反対する人がたくさんいました。ムカラバが保護区になったせいで狩猟が出来なくなって不満だ、俺たちに返せ、とはっきりと言う人がいました。私は最初から保護活動をするつもりではなく、むしろ純粋に学問としての霊長類学をやりたかったのですが、研究にも非協力的で、たくさんのイジワルをされました。

ちょっとしたことがあっという間に村全体の問題となり、それを解決するために村人全員と研究者たちの「会議」が開かれる。そこで、あれだこれだとつるし上げのような目に遭いました。なにしろこちらは一人か二人。多勢に無勢です。こっちはフランス語も得意でなく、訥々と話さざるを得ないのですが、向こうは議論慣れしていて次から次へと有力者がでてきて演説をする、それに参加者から合いの手が入る。まあ、それは大変でした。

タイトルに示した言葉は、そんな会議の中で、現在私たちが調査の拠点をおいているD村の当時の村長さんから投げつけられた言葉です。「お前たち」というのは、日本人も含めた白人(外国人)のことです。

ムカラバは2002年まで動植物保護区、つまり、森林伐採や狩猟を前提として、木材資源や狩猟動物が枯渇しないよう管理されるエリアでした。1980年代まで、村には巨大な伐採基地があり、伐採会社で働く白人の居住エリア(プールとテニスコートつき!)が隣接し、多くの住民が伐採会社で働いていました。伐採だけではなく、白人がレジャーとして野生動物の狩猟にやってきたこともあったそうです(もとフランス大統領が来たという噂も聞きましたが、真偽は未確認です)。

それが、80年代後半に保護の目的を森林資源の保護から生物多様性保全へシフトされ、伐採会社は撤退し、やがて村も衰退してゆきました。(余談ですが、このD村の状況は、戦後日本の地方のありようとかなり共通点があるのではないかと感じています。そんなこともいつかどこかで書ければ。)

私がムカラバにやってきたのは、そういう時でした。森林伐採で反映していた村が、政策転換で過疎化、衰退していった。そこへ、今度は木を切らず動物も狩らない、ただ動物を観察するというだけの白人が現れたわけです。森林省からの調査許可証を携えて。

伐採会社は、木を切ることの代償として、道を作り橋を架け、学校と診療所を建てて人々を雇った。だったら、お前たちは木を切らないことの代償として、道を作り橋を架け、学校と診療所を再建せよ。それが村長さんの言い分でした。

そんなだった村が、以下にして誰も彼もが保全賛成と言うように変わったのか。当時の私たちの話し合いの顛末とその後の展開はとても1回分の記事では書ききれないので、次回に続きます。

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