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大型類人猿の何を守るのか+連載折り返しの雑感

連載折り返しの雑感

年頭からはじめたこのマガジンも記事が20を越え、時期的には6月と、折り返しを迎えましたが、先週は更新をお休みしてしまいました。自分の中で少しネタ切れになってきたというか、ネタはいくらでもあるのだけれど、それをどのように表現していったらいいか、というところで悩むことがあり、少し考える時間が必要になりました。

連載の2つの目的

この連載をはじめるとき、もくろんでいたことが二つあります。ひとつは、大型類人猿保護に関して、ある程度まとまった形の日本語による情報発信をすることです。中学生や高校生が読めるような平易なものを出して、参照してもらいたかった。もうひとつは、現在国内外で主流の考え方に対する私自身の違和感やモヤモヤを言葉にすることです。住民参加型保全とか、チンパンジーの擬人化とか、それからまだこの連載で扱っていませんがエコツーリズムなどについて、私は「反対ではなく、むしろ推進派だけれども、今のやり方でよいのか悩むことがある」のですが、そうした悩みを共有できる人が身近にはほとんどいません。「大賛成、推進派」か「反対派、もしくは冷ややかな傍観者」はたくさんいるのですが。

で、連載当初はかなり1つ目の目的を意識して書き始めました。しかし、正直、我ながらいかにも教科書的で、書いててあまり面白くない。そこで、もうちょっと自分の考えを語らないと自分にとっても読む人にとっても面白くないのでは、と、意識的に自分の考えを出していったら、今度は生来の偏屈が増幅してしまい、書いていてどんどん重苦しい気持ちになってしまいました。これはこれで、一部の偏屈仲間(と書くのは読者に失礼ですが)を引きつけるかもしれないけれど、大型類人猿保護について広く知ってほしいという目的は果たせなくなってしまいそう。

明るく楽しく難しく

そういうわけで、この辺で少し軌道修正をしたいと思います。私は、大型類人猿保護って一筋縄ではゆかない、複雑で難しい問題だと考えています。しかし、最近は世の中全体が単純思考に偏りがちで、これがいいことだとなったらばーっと突っ走り、これが悪いこととなったらどーんと炎上する、みたいな雰囲気です。でも、そういうのに違和感を持つ人は私以外にもたくさんいるはずですし、また、中高生など次の世代の人には単純思考になってほしくない。そう思うと、世相への不満をこじらせるより、「難しいから一緒に考えようよ」と明るく呼びかけていきたい。

人生も折り返しを過ぎ、生来の偏屈は日々凝り固まってゆきますが、少し努力をして「明るく楽しく難しく」を心がけてゆきますので、続けて呼んでくださっている方は、どうぞあと半年お付き合い願います。

大型類人猿の「何」を守るのか?

大型類人猿保護は複雑で難しい問題ですが、その複雑さ、難しさには大型類人猿特有のものもありますが、かなりの部分は他の野生生物と共通です。つまり、自然保護、生物多様性保全そのものがとても複雑で難しい問題です。

たとえば、ある種を「守る」という一言をとっても、それってどういうことなの?とあらためて考えてみると一筋縄ではゆきません。以下にみてゆきましょう。

個体の生命を守る

チンパンジーなりゴリラなりを「守る」というとき、いちばん素朴に思い浮かべるのは個体の生命を守ることです。野生下、飼育下を問わず、いま存在している個体の安全を脅かす要因を減らし、安心して暮らせる環境を用意してあげる。たとえばロードキル(動物が道路上で車などにはねられてしまうこと)が問題なら、「動物注意」の看板をたてたり、動物が通れる隧道を作ったりする。怪我や病気の個体がいたら一時的に保護し、適切な医療的ケアを行うなどです。

個体群を守る

人間社会では一人一人の生命と福祉が最大限尊重されねばなりません。しかし、野生生物保護においては、場合によっては個体の生命よりも個体群や種全体の存続を優先して考えることがあります。それは、一見個体の生命を軽視しているように見えることもありますが、必ずしもそうではありません。個体保護という近視眼的な観点からは見えづらい、より大きなレベルの保護を可能にします。たとえば、保護区域の選定などは、その生息地で長期的に個体群が存続させるという観点から検討されます。

生態や「本来の姿」を守る

保護というのは単に生命を守ればいいというものではありません。それならば、ノアの箱舟のように保護対象の動物を人間が保護して、人間の管理の下で生命を保障し、さらに繁殖させてゆけばいい(コストの問題はあるとしても)。しかし、それで当該動物を「守った」ことになるのか。生物の実存は生態系の中で実現されるものです(実存なんて言葉を使っちゃいました)。たとえば、たとえば人為的な環境改変によって野生動物がその生態を大きく変えてしまったら、それは何かが失われたことになりはしないか。こうした問題に対しては、生命だけでなく生態を守り、本来の生息環境において本来の姿を維持してもらうという視点が一つの答えとなります。

この観点にしたがうと、「個体を守る」で述べたような疾病傷害個体に対する保護や医療的介入はむしろ保護に反する行為となることがあります。

遺伝子や系統を守る

生身の個体やその集合としての個体群の保全とは別に、種の保存とはその遺伝子や系統を保全することだという考え方があります。遺伝子はヒトも含めた地球上のあらゆる生物の設計図であり、40億年かけて進化してきた貴重なものです。ある系統の遺伝子が失われたら、現代の科学ではそれを復元する手立てはありません。しかし、遺伝子さえ保全されていたら、そこから個体を作り出し、さらには個体群、生態系を復元することも(理論的には)可能です。遺伝子や系統を守るという観点に基づき、日本や海外では野生生物の遺伝子を収集、保全する取り組みがなされています。

この観点を「遺伝子さえ守ればよい」と捉えると、個体の生命や実存(!)を軽視する考え方に見えるかもしれません。そうした見方は必ずしも間違いとはいいきれませんが、実践レベルでは逆のことも起きています。どのような種にも種内の遺伝的多様性があります。目に見える個体群の存続だけを考えた保全計画が、時として遺伝的多様性を保全する観点からは不完全なこともあります。

どれが大事なの?どれも大事なの?

ある生物を「守る」といっても、その生物の何を守るのか、多様な観点があることがわかってもらえたかと思います。じゃあどれが大事なの?と聴かれたら、どれも大事ですよ、と私は答えます。

ただし、どの観点に立つかによって、実際の諸活動の重要度や緊急度は異なります。時には異なる観点で対立する考え方も生じます。上に述べた「怪我をした野生動物をどうすべきか」などはわかりやすい例かと思います。そのとき、どの観点を優先すべきかは状況によってことなります。

だから、大型類人猿を包括的に守ってゆくためには、こうしたさまざまな観点をよく理解したうえで、現実に直面した状況における最適解を考える必要があります。そうでないと、よいことをしたつもりが最悪のことであった、ということになりかねません。「大型類人猿のために自分のできることをやりたい」と思っている人には、このことを強く意識してほしいです。「今あなたにできること」は「大事だけれど今はすべきでないこと」かもしれないからです。

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