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常識外れの世界を、贈られた話。
年末、ある先輩から本を7冊ほど譲ってもらった。丁度いいサイズの段ボールに、それらの本といくつかのティーパック、お手紙が添えられていた。その先輩とは半年間同じ会社で働いた。年齢は10近く離れて、部署も違ったのだけれど、退職した後も何度かご飯をご一緒頂いたりと構ってくれる方だった。
頂いたどの本も未読だったので、わくわくと読み進めている途中なのだが、その中に村田沙耶香さんの『生命式』という本と、F.エマーソン・アンドリュース氏作の『さかさ町』という本が入っていた。『生命式』のあとに『さかさ町』を手に取ったのだけれど、偶然にもどちらも常識外れの世界が広がる物語だった。
『生命式』という本は、12本の短編集であるが、その中には人が死んだ後火葬するのではなく、死んだ人間を食べる葬式を舞台にした世界や、死んだ人間の骨や皮膚などを素材として使った家具や雑貨が売られている世界、カーテンが擬人化された世界など、今の常識では考えられない(でも完全に今後もないとは言えないような)世界が広がっていて、読んでいてゾクゾクした。
『さかさ町』は、建物、看板などの物体、食事、仕事、学校、病院での常識、野球の試合や買い物のルールまで全て、さかさになった町に、急遽一泊することになった兄妹の冒険の話で、それも私たちの「普通」から一線を画す世界が広がっていた。
これらの物語を読みながら、よくこんな世界が頭に浮かぶなと作者の方々に畏敬の念を抱いたと同時に、それでもとりあえず暫くは人を食べたり、さかさにならなそうなこの現世に、このお話は何を贈りたかったのだろうかと考えを巡らせた。なんだか「常識を疑う大切さを学んだ」それだけではどこか物足りない気がした。
・・・
三年前の大学4年の時、ほぼフルタイムで半年間学生インターンをさせてもらっていた会社があった。それまで、私ははたらくと言えばアルバイトだけで、つまりは「やること」と「やり方」がある単純作業ばかりで、それらを勤務時間にやり続ければお金が貰える、と思っていた節があった。
教えられたやり方に「もっと良いやり方あると思います」とか、「それ今週やらなくてもいいんじゃないんですか?」なんて言葉が存在し得ることも考えにも及んでいなかった。
そんな仕事に対する認識の中でインターンした会社は、まだ規模が大きくないベンチャー企業で、限られた人数の中で、仕組み化されていない様々な仕事を片付けなければいけない世界だった。
山積みになったタスクを、アルバイトの頃と同じように、引継ぎされた方法や頻度で、右から左へ流してレバーを回すようにその日も仕事をしていた時、ある上司に言われた一言がある。
「それ今週やる必要ある?思考停止になっているんじゃない?」
毎週木曜日の夕方に行うと引継ぎされた仕事を、その日も同じようにしていたのであるが、たしかにその仕事が何のために行う仕事で、それにはどれだけの価値があり、どれだけのコストがかかっているか、を考えれば「来週まとめてやる」判断もできる仕事だった。
しかし当時のわたしは眼から鱗の状態で、今まで土台にあった世界が疑い得る世界で、思考を及ばせられる世界だと初めて知った瞬間だった。
・・・
私たちの世界はいろんな当たり前の上に成り立ってて、地球が自転して、朝と夜があり、時間が進み、火が付いて、水が出て。そんな当たり前に「ある」ものの上に日々が成り立っている。
そして私たちは「ある」ものは、今日も明日も「ある」と信じていて、それが常識で、なかなかそれを疑うって難しいことなのではないか、と思う。
思考停止だと指摘された時も、土台となっていた目の前に広がる引継ぎされたタスクは、「やるべきもの」としてそこにあって、それをやることこそが仕事で、わたしにとってはそれが常識だった。
だからこそ、他者の視点や、他の世界の物語が私たちには必要なのだと思う。
近内悠太さんの『世界は贈与でできている』という本の中に、以下のような言葉がある。
あるいは、SFの機能、すなわち逸脱的思考の機能をこう表現することもできますーー僕らが忘れてしまっている何かを思い出させること、忘れてしまっているものを意識化させること。(177)
現代に生きる僕らは、何かが「無い」ことには気づくことができますが、何かが「ある」ことには気づけません。いや、正確には、ただそこに「ある」ということを忘れてしまっているのです。(183)
逸脱的思考とは、世界と出会い直すための想像力のことでした。世界と出会い直すことで、僕らには多くのものが与えられていたことに気づくのです。(185)
自分が見える世界は狭い。右にも左にも、上にも下にも、世界は広がっているのにひとりでは到底気がつくことができない。
常識離れした物語を読むことで、読後すぐのわたしは、「そんなフィクションがない世界」としてどちらかと言えば欠如の意味でこの世界を認識した。しかし、それはよく考えれば「ないことがある」世界であるし、フィクションにするにあたり脇に追いやられた世界がある。死を真っ直ぐに悲しむ世界、真っ直ぐに書かれた看板、子どもは学校へ行き大人が働く世界。
それが私たちの目の前に「ある」世界で、でもそれらが生きにくければ、少しずつフィクションの世界とまではいかないけれど、変える余地が見える。
そんなフィクションと、認識した現実の間に流れる余地から、わたしたちはどこか希望を見出せるのではないだろうか。変えられないと思っていたものが、もしかしたら変えられるかもしれない、というような希望を、抱けるのではないだろうか。
本を譲ってくれた先輩に、「常識を疑え」と言われているようで、襟を正すような思いだった。
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