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あるスリランカ人の日本での挑戦の話。

2017年11月30日、あるスリランカ人の男性が成田へ降り立った。その年30歳となった1児の父である彼は、その日初めて外国の地を踏んだ。スリランカは年中温暖な気候だからか、外国の寒さなど露知らず、日本では冬の訪れを感じる11月末、ダウンコートをおろす人もちらほら見られる中、シャツとレザージャケットという軽装で成田の風を浴びた。

彼の職業は、ジュエリー職人だ。世界有数の宝石産出国のスリランカで、天然石を用いたジュエリーを作る。日本人のジュエリー職人がオーナーを務める現地の工房で、彼は15名ほどの職人をまとめるリーダーを任されている。

わたしは2017年当時、大学4年生で、ある小売ブランドのジュエリーチームでインターンをしていた。その小売ブランドは、「途上国から世界に通用するブランドを作る」という理念を掲げ、途上国において鞄・アパレル製品・ジュエリー等を生産し、先進国にて販売をしていた。そして、そのジュエリーラインの一部は、上述したスリランカの工房で作っていた。

その年の12月初め、本ジュエリーラインが立ち上げ後2年経ったことを記念して、職人である彼が、日本のお客さんの前に立ち、実演や交流を行うイベントが予定されていた。そのため、彼はこうして1週間、日本人のオーナーとともに、初めての海外に、冬の日本に、出張として降り立ったのである。

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彼が到着する随分前からイベントの企画は始まっていたが、彼の日本での滞在スケジュールはイベント以外白紙だった。(同行した日本人オーナーは、彼が日本のスタッフと多く関われるように、意識的に彼と距離を置くと決めていらした。)

彼が到着する数日前に、「スケジュール決めないとやばいよな…」と思い立ち、大学の帰り道のタリーズで一週間のスケジュールを記したスプレッドシートを作成した。その流れもあり、わたしが主担当となり滞在中彼をアテンドすることになった。

彼と初めて顔を合わせたのは、成田からその足で来てくれた会社の事務所だった。その時は、オーナーがこれでは寒いだろうと買った、ユニクロのウルトラライトダウンをレザージャケットの上から着ていた。彼は、初めて感じるその寒さに、わからない言語しか飛び交わない日本の地に、はじめましての人しかいない事務所に、心細さを感じていることが容易に見て取れた。

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彼は英語をほとんど喋れなかった。日本語も全くだった。そのことをわたしはなんとなく彼の到着前から知っていたのに、彼の第一言語であるシンハラ語を一切調べていなかった。忙しさにかまけ、シンハラ語の本すら持っていなかった。

彼を前にして、話せる言葉がなくて、咄嗟にあいさつ「アーユボーワン」と(多分Hiみたいな感じだと理解している)、寒いを意味する「シッタライ」だけ検索して頭に入れた。外に出れば「シッタライ?」としつこすぎるくらい聞いた。それしか喋れることがなかった。

事務所での挨拶を済ませ、彼を店舗に連れて行った。彼らが作ったジュエリーが、綺麗にディスプレイされている様子に、あんなに不安そうだった顔がみるみる綻んでいるのがわかった。本当に嬉しそうで、ひとつひとつの商品をまじまじと見て写真を何枚も撮っていた。それでも彼は、その感情をわたしに、日本人スタッフに詳しく伝える手段がなかった。わたしもその時の彼の感情を詳しく聞くことができなかった。

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そんな付け焼き刃のシンハラ語と、なんとなくの英語と、全力のボディランゲージで一緒に過ごしていた2日目の夜、彼を滞在するホテルに送り届けた。幾ばくか荷物もあったので、彼の部屋までわたしも一緒に向かった。

すると、部屋に入った時、彼がガサゴソ何かを取り出した。それは、スリランカから持ってきた日本語の本と、メモ帳とボールペンだった。

手狭なシングルルーム内にあるカウンターテーブルの前に彼は腰掛け、覚えたてのあやふやな日本語を喋った。それは日本語を教えて欲しいという合図だった。わたしは隣に座り、彼が言った日本語を修正すると、彼は持ってきた日本語の本を開き、これは何?と聞いた。案の定、外国で作られた日本語の本は、日本人にとってわかりにくかったけど、一つ一つ教えた。本に書かれていない、よく使える言葉も教えた。まるっこいシンハラ語で、読み方と意味を真剣にメモしていた。

わたしがホテルを出たとき、時刻は22時半を過ぎていた。1時間半以上、彼の日本語に付き合っていた。

彼の勉強に付き合う1時間半の間、何度か時計を見たけれど、どうしても「もう遅いし明日やろう」とは言えなかった。彼があまりにも真剣だったその時間を、こちら都合で終わらせられなかった。きっと工房のみんなの想いを背負って、日本にやっと来て、自分たちの作ったジュエリーが綺麗に並べられていて、それを見て伝えたいことがたくさんあったはずだ。それでも伝えられなくて、それがもどかしくて、とにかく日本語を覚えるしかないと、腹をくくったように見えた。

わたしも自ら彼に寄り添えていなかった反省もあって、彼の30歳の挑戦に、ただただわたしのできることを差し出したい気持ちでいっぱいだった。

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きっと、挑戦することは一度敵わない自分を受け入れることから始まる。敵わなくて、叶わなくて、でもそれ以上に、敵う自分になりたくて、叶えたい未来があって地道な一歩を進み始める。

その姿は、どんなに言葉がわからない間柄でも、胸を熱くするものがあった。彼の挑戦は愛にあふれて、本当にカッコ良かった。

結局彼は滞在した1週間で、そこまで日本語を覚えていなかったと思う。それでも、あの夜から毎日その日本語を書いたメモ帳を手から離さず、誰かと話そうとするとき、なんとかそこから今の自分の感情に一番近い言葉を出そうとしていた。なんとか、彼なりに日本人スタッフと交流を取ろうとしていた。初日の、心細い顔は日に日に薄れていった。

挑戦は、高いハードルを乗り越えた結果のことじゃない。敵わない自分を変えようと、願いを叶えようと歩むその道こそが、戦いに挑む様であり、挑戦だ。たとえその道が短く何かを成し遂げられなくても、変わりたいと思った自分を、大切にしていいんだな、と彼を見て思うのだった。

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ちなみに彼は、工房のメンバー全員ひとりひとりに腕時計と、家族宛に12本の折り畳み傘と大量のお菓子を、真新しいパスポートを見せながら免税で買い、案の定キャリーバッグに入らず、段ボールを抱えて帰ったのである。

いつか、彼に初めて日本で過ごしたあの1週間の日々のことをじっくり聞いてみたいし、あなたに胸を熱くしたと伝えたい。

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(店舗でVR体験ができたので、楽しんでるご様子。)

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